豊臣家武将一覧

豊臣家は、秀吉が一代で築いた家名であり、永き戦国乱世を統一した
家名でもある。豊臣姓は天皇より下賜された姓であり、藤原姓に続いて
二番目である。
織田信長政権と違い天皇を尊び、朝廷を重視した政権運営を目指した
秀吉の狙いが見て取れる配慮である。
天下統一を成した秀吉であったが、豊臣家の跡目を継いだ秀次を断罪
に処し、無用な朝鮮の役を行い民衆や諸将の豊臣家に対する忠誠心を
そいでしまったことで豊臣家の存続を難しくする。秀吉没後は、豊臣家
恩顧の家臣たちの争いが激化し、関ヶ原の戦いをもって、豊臣家の権勢
は失墜した。
徳川家の幕府開成後も、豊臣家は存続したが、大坂の役をもってついに
滅亡する。

一代で豊臣政権を樹立。天下統一を成し遂げた才能は戦国随一を誇る。
信長の野望を受け継ぎ、天下統治に尽力し、天下泰平の基礎を築く。

豊臣 秀吉 (とよとみ ひでよし)
1536-1598 享年63歳。豊臣家当主。大名。


戦国時代最後の砦となった大坂城の当主。家康も感嘆した父・秀吉譲りの
秀才振りを現すが軍才なく、徳川家の討滅戦を喰らう。

豊臣 秀頼 (とよとみ ひでより)
1593-1615 享年23歳。豊臣家当主。大名。


養父・秀吉の跡目を継いで、関白となり、聚楽第にその栄華を誇る。
後に秀頼が誕生すると秀吉に粗野にされ、”殺生関白”との悪評を浴び、自刃す。

豊臣 秀次 (とよとみ ひでつぐ)
1568-1595 享年28歳。豊臣家一門。


秀吉軍団の副将を勤め、軍団の財務大臣として活躍。四国平定戦では
兄・秀吉に負けない軍略の才を現し、諸将から厚い人望を集めた、豊臣家の要人。

豊臣 秀長 (とよとみ ひでなが)
1542-1591 享年50歳。豊臣家一門。


秀吉子飼衆出の猛将。豊臣家武断派の筆頭となり、豊臣家文治派と対立。
名城・熊本城や名古屋城を築城するなど築城の名手としても名高い。

加藤 清正 (かとう きよまさ)
1562-1611 享年50歳。豊臣家重臣。


秀吉が賞賛した天才的な事務手腕を発揮した。豊臣家文治派の筆頭となり、
豊臣家武断派と対立。関ヶ原の戦いで徳川家康排除を目論むが軍才なく滅す。

石田 三成 (いしだ みつなり)
1560-1600 享年41歳。豊臣家重臣。


豊臣家の要人・秀長の養子となり、”大和中納言”と呼ばれた。名将・藤堂高虎
を後見人とし、豊臣家一門としての諸事に勤めたがあえなく、夭逝す。

豊臣 秀保 (とよとみ ひでやす)
1579-1594? 享年16?歳。豊臣家一門。


秀吉軍団の名軍師として天下平定戦に活躍。秀吉に追従するほどの野心家で、
天下統一後は秀吉から排斥。関ヶ原合戦で再び野心を燃やすも時運なく隠遁す。

黒田 孝高 (くろだ よしたか)
1546-1604 享年59歳。豊臣家軍師。


豊臣家武断派に列し、秀吉の天下統一戦に従い、各地を転戦した。
関ヶ原合戦では東軍に属して、活躍を見せ戦後も栄華を見た。

加藤 嘉明 (かとう よしあき)
1563-1631 享年69歳。豊臣家重臣。


秀吉の寵臣にして秀吉軍団屈指の猛将。豊臣家武断派として文治派の石田
三成と対立。関ヶ原合戦では東軍の主力を勤め、西軍主力の宇喜多軍と激戦す。

福島 正則 (ふくしま まさのり)
1561-1624 享年64歳。豊臣家重臣。


若くしてすぐれた軍略の才を現し、天下平定戦で活躍。豊臣政権下では奥州
抑えの将となり、伊達政宗と張り合う。秀吉にその俊才を疎んじられ、毒殺される。

蒲生 氏郷 (がもう うじさと)
1556-1595 享年40歳。豊臣家重臣。


秀吉が”百万の軍勢を預けてみたい”と感嘆したほどの軍才を現した。
文武両道の名将として関ヶ原合戦では、西軍の重石となり、奮戦す。

大谷 吉継 (おおたに よしつぐ)
1559-1600 享年42歳。豊臣家重臣。


父・孝高に似ず、忠義心厚い勇将として活躍。関ヶ原合戦では徳川家康が豊臣
家恩顧の将の中で最も頼りにし、長政も見事その期待に応えて大活躍した。

黒田 長政 (くろだ ながまさ)
1568-1623 享年56歳。豊臣家重臣。


武名は天下にとどろき、諸大名がこぞってほしがった名将。秀吉もほしがった英雄
は渾身の待遇を示した三成の家臣となり、関ヶ原合戦にて東軍と激戦を演じた。

島 左近 (しま さこん)
1548?-1600 享年53?歳。石田家重臣。

織田信長の四男で、秀吉の養子となる。羽柴家の大切な跡取りとなり、中納
言まで昇進。豊臣政権下では、丹波を領して畿内防衛にあたるも夭逝す。

羽柴 秀勝 (はしば ひでかつ)
1568-1585 享年18歳。羽柴家一門。


秀吉の養子となり、豊臣政権の諸事に勤める。秀吉政権下で外様大名封じ
込めのための重要な駒として活躍するも、若くして病没す。

豊臣 秀勝 (とよとみ ひでかつ)
1569?-1592 享年24?歳。豊臣家一門。


文武両道の将にして築城の名手という優秀振りで秀吉・家康から重く用いられた
名将。諸将の調整役で抜群の才能を発揮。戦国屈指の政調政治家として活躍。

藤堂 高虎 (とうどう たかとら)
1556-1630 享年75歳。豊臣家重臣。


学問をよく修め、名将の器と諸将から賞賛された。秀吉・家康もその俊才を
高く評価し、戦略上重要な駒として活用した。

浅野 幸長 (あさの よしなが)
1576-1613 享年38歳。豊臣家重臣。


木下秀吉時代から秀吉軍団の一翼を担う。文武両道を現し、豊臣家五奉行筆頭
を勤める。関ヶ原合戦後、徳川政権下でも厚遇を受け、変わらぬ栄華を誇った。

浅野 長政 (あさの ながまさ)
1547-1611 享年65歳。豊臣家重臣。


弱冠8歳で秀吉に仕え、豊臣家の重鎮を成す蜂須賀家の存在を示す。
関ヶ原合戦では、東軍に属し、徳川家と縁戚関係を結び、家名の存続を図る。

蜂須賀 至鎮 (はちすか よししげ)
1586-1620 享年35歳。豊臣家家臣。


父・正勝とともに秀吉に仕え、歴戦を重ねる。秀吉の股肱の臣として活躍し、
豊臣家の重鎮となる。関ヶ原合戦では豊臣家の将来を危惧するも何もできず。

蜂須賀 家政 (はちすか いえまさ)
1559-1638 享年80歳。豊臣家重臣。


秀吉の立身出世初期から仕え、秀吉軍団の頼れる猛将となる。外交面でも活躍を
見せ、秀吉調略の重要な駒として各地を飛び回る。秀吉の天下統一を見ずに没す。

蜂須賀 正勝 (はちすか まさかつ)
1526-1586 享年61歳。豊臣家重臣。


落ち目となった丹羽家を出奔し、秀吉に仕える。秀吉軍団では指折りの事務手腕
を発揮。豊臣家文治派に列し、関ヶ原合戦で西軍に属すも活躍の場なく自刃す。

長束 正家 (なつか まさいえ)
1555?-1600 享年46?歳。豊臣家重臣。


秀吉の近江長浜時代から秀吉に仕え、事務手腕を発揮。豊臣家五奉行の一人
に列し、秀吉没後の豊臣家混乱の収拾に奔走。関ヶ原合戦後は、存続に必死す。

増田 長盛 (ました ながもり)
1545-1615 享年71歳。豊臣家重臣。


木下秀吉時代から仕えた豊臣家股肱の臣。諸将の調整役や奉行職を務め、
豊臣家の重鎮となる。関ヶ原合戦後は、幕府統治の世を巧みに渡る。

堀尾 吉晴 (ほりお よしはる)
1544-1611 享年68歳。豊臣家重臣。


賤ヶ岳の戦いで七本槍の一人に列する武功を立てる。その後、豊臣水軍の将
として活躍。関ヶ原合戦では西軍につくも途中で東軍に寝返り、所領安堵を獲得。

脇坂 安治 (わきざか やすはる)
1554-1626 享年73歳。豊臣家重臣。


幼い秀頼の後見役を勤めつつ、豊臣家の諸事や奉行職を勤めた有能な文官。
徳川家康の謀略にあい、豊臣家に謀叛の嫌疑をかけられ、大坂城を退去す。

片桐 且元 (かたぎり かつもと)
1556-1615 享年60歳。豊臣家重臣。


秀頼の母・淀殿の寵臣となり、秀吉没後の豊臣家中で絶大な権限を握る。有能な
文官にして一流の風流人となるも、大坂の役では軍才なく無策のため滅す。

大野 治長 (おおの はるなが)
1575?-1615 享年41?歳。豊臣家重臣。


秀吉の近江長浜時代から秀吉に仕えるようになり、文武両面で活躍。
関ヶ原合戦では東軍につき、戦後には、土佐一国を拝領し大身を成した。

山内 一豊 (やまのうち かずとよ)
1546-1605 享年60歳。豊臣家重臣。


若くして抜群の軍功を立て、出世の道を切り開く。歴戦の勇士として豊臣政権でも
活躍し、関ヶ原合戦でも活躍。戦後、播磨姫路城を領し、”姫路宰相”と呼ばれた。

池田 輝政 (いけだ てるまさ)
1564-1613 享年50歳。豊臣家重臣。


秀吉の跡取り候補に列すも、秀頼が誕生し、小早川家の養子となる。関ヶ原合戦
で西軍から東軍へ寝返り、東軍の勝因を作る。戦後、裏切りのそしりを受け、夭逝す。

小早川 秀秋 (こばやかわ ひであき)
1582-1602 享年21歳。豊臣家一門。


10人足らずで城を乗っ取るほどの智略を見せ、秀吉軍団の名軍師となる。秀吉の
立身出世を助け、数々の智略を現す。命が消え行く中、その後釜は黒田孝高が担った。

竹中 重治 (たけなか しげはる)
1544-1579 享年36歳。羽柴家軍師。


織田信長から絶賛された武勇を現し、歴戦の勇士として、豊臣政権でも活躍。
軍略の才は独特の強さを誇り、秀吉軍団の名指揮官として活躍した。

堀 秀政 (ほり ひでまさ)
1553-1590 享年38歳。豊臣家重臣。


高次の姉が秀吉の側室となり、立身出世を果たす。秀吉の天下平定戦に
従軍し、名族・京極家の再興を果たす。関ヶ原合戦では東軍に属し活躍す。

京極 高次 (きょうごく たかつぐ)
1563-1609 享年47歳。豊臣家家臣。


信長・秀吉・家康が認めた器量端麗な名将。文武両道にひいで、一流の風流人
として名高い。関ヶ原合戦では東軍に属し、戦後、肥後54万石の大身を果たす。

細川 忠興 (ほそかわ ただおき)
1563-1645 享年83歳。豊臣家重臣。


黒田孝高・長政に仕え、すぐれた軍才を現し、名将として名高い。主君・長政
から敬遠され、流浪の身となるも大坂の役で再起を果たす。幕府軍と激戦す。

後藤 基次 (ごとう もとつぐ)
1560-1615 享年56歳。黒田家重臣。


豊臣水軍を率い、朝鮮の役では加藤清正と軍功を争う。関ヶ原合戦では、
西軍に属し、よく奮戦するも敗退。戦後、捕らえられ無念の断罪を受ける。

小西 行長 (こにし ゆきなが)
1558?-1600 享年43?歳。豊臣家重臣。