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浅野 幸長
あさの よしなが
1576-1613
享年38歳。
名称:長継、紀伊守
居城:紀伊和歌山城
■父は豊臣家の柱石を担った浅野長政。
母・ややが秀吉の正室・ねねの妹だ
ったことからその縁で幸長は、若くして
羽柴秀吉に仕えた。
■幸長は若くして学問によく通じ、その智
才は、政務面ではなく軍事面で発揮さ
れ、文武両道の父・長政を有に跳躍す
る名将の才気を持つと謳われた。
経学を藤原惺窩、堀杏庵に、砲術を
稲富一夢に学ぶという師も当代随一
の一流ぞろいであった。
幸長の抜群の軍才が如何なく発揮
されたのは、1590年に起こった小田原
征伐の時である。
この一連の戦いで幸長は多大な軍功を
飾り、若輩者でありながら名将の片鱗
を現し、諸将を驚かせた。
■1593年11月、朝鮮の役の最中に秀吉
は異例の人事を行い、浅野長政・幸長
父子に甲斐一国を与え、浅野家を22万
5000石に封じた。
この人事は、浅野家に奥州諸大名の
統制をさせるためであり、浅野家がそ
の重役に耐え得るものと秀吉は認知
してのことだ。
実際の打ち分けは、幸長が22万5000
石のうち、16万石を領すもので、秀吉が
父・長政よりも幸長を高く評価していた
ことが見て取れる。
この秀吉の期待に応えるべく、浅野家で
も幸長が豊臣政権での役目を主に負う
ことが多くなり、世代交代が行われた。
■慶長の役では、幸長は加藤清正の部隊
に編入され、他国の地でも天才的なその
軍略を如何なく、発揮した。
1600年、関ヶ原の戦いでは、父・長政と
ともに東軍に属して、相性の悪い西軍の
石田三成と戦った。
関ヶ原合戦の前哨戦となる東軍による
岐阜城攻撃では大功を挙げ、東軍の士気
高揚に貢献。
関ヶ原決戦では、南宮山の毛利勢を牽制
する重任に就き、主力部隊を欠く徳川軍
にとって、頼みの軍勢となった。
戦後、これらの軍功を認められ、幸長は
紀伊和歌山37万6000石を拝領し、大
大名の仲間入りを果たした。
順風満帆に見えた幸長であったが、38歳
という若さでこの世を去る。
病死と伝えられるが名将としてあまりにも
軍略の才があったことを幕府に恐れられ
毒殺されたという疑いもぬぐいきれない。
幸長は1613年に没しているが、大坂の役
が起こる丁度一年前というのも出来すぎ
ている歓がある。
幸長には男児がなかったため、次弟の
但馬守長晟が浅野家の家督を継いだ。
さらに長晟は徳川家康の娘婿となったこと
から浅野家は徳川家に最も親密な外様
大名となり、幕末まで栄華を誇った。
※ちなみに忠臣蔵で有名な播州浅野家
は幸長の三番目の弟・長重の家系である。
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