大谷 吉継
おおたに よしつぐ
1559-1600
享年42歳。


名称:吉隆、紀之介、刑部少輔、
    従五位下
居城:越前敦賀城


■豊後国の大名・大友宗麟の家臣・
  大谷盛治の子といわれる。
  豊臣秀吉の小姓となり、秀吉から
  目をかけられるようになる。

■1583年(天正11年)、賤ヶ岳の戦い
  では七本槍に次ぐ戦功を立てた。
  1585年(天正13年)7月、従五位下
  刑部少輔に叙任される。

  1587年(天正15年)、九州平定戦
  では石田三成とともに兵站奉行(
  へいたんぶぎょう)を勤める。
  ※兵站(へいたん)とは、軍隊の食
  糧その他の必需品のこと。

  1589年(天正17年)、一連の功績に
  より吉継は越前敦賀城主に封ぜら
  れ、5万石を拝領した。

■小田原征伐、奥州平定戦と歴戦し、
  平定後は出羽の検地を担当した。
  朝鮮出兵の際には、石田三成とと
  もに船奉行となり、船舶の調達管
  理にあたった。

  1592年(文禄元年)6月、吉継は督
  戦の奉行として渡海し、1593年(文
  禄2年)に明軍との交渉にあたった。
  1594年(文禄3年)、伏見城の築城
  工事に携わる。

  1597年(慶長2年)、吉継は主君・
  秀吉を自邸に招いて饗応し、多く
  の贈物して人々を驚かせた。

■1598年(慶長3年)、秀吉の遺物・
  国行の刀を受領する。秀吉没後、
  吉継は時代の流れを敏感に掴み
  、徳川家康に接近する。
  1600年(慶長5年)7月に12万石
  に加増されたとされるが詳細は
  不明。
  会津征伐が敢行されると吉継は
  、これに参軍するため、越前敦賀
  城を発した。
  途中、佐和山城の石田三成に会
  見した際、三成から徳川家康討
  伐計画への参画を求められる。
  吉継は家康の実力を説き、中止
  することを三成に勧めたが三成
  の決意が堅い事を知ると、行動
  をともにすることを決心した。
  いったん居城の敦賀城へ戻った
  吉継は、挙兵して前田利長軍を
  破って美濃関ヶ原へと進出した。

  関ヶ原決戦では、大谷軍は寝返
  る可能性が高いと見ていた小早
  川秀秋軍に備える布陣を布いた。
  決戦後半になって、小早川軍が
  東軍に寝返り、大谷隊へ突進し
  てくると吉継はこれを迎え撃ち、
  激戦の末、自刃して果てた。