加藤 清正
かとう きよまさ
1562-1611
享年50歳。


名称:虎之助、夜叉丸、主計頭
居城:肥後熊本城


■尾張の土豪・加藤彈正左衛門清忠の
  子。
  母は秀吉の実母と従姉妹という。
  清正3歳の時、父が他界し、5歳の時に
  近江長浜城主12万石と大出世してい
  た秀吉の下へ預けられる。
  一介の農民から大名へと大出世した秀
  吉にとって、信頼がおける身内が必要
  であったことから清正は大いに歓迎さ
  れた。
  秀吉の正室・おねから実子のように育
  てられた。

■子飼いの将として養育を受けた清正は
  、15歳で元服し、1580年播磨神東郡に
  120石を拝領した。
  秀吉軍団の若武者筆頭としてその後
  は、秀吉とともに各地を転戦した。
  初陣は1581年、因幡鳥取城攻めで、
  小物見という斥候(せっこう)役を勤め
  、少なからず戦功を挙げた。

  次いで1582年の備中冠山城攻撃では
  一番槍の名誉ある武功を挙げた。
  1583年、賤ヶ岳の戦いでは七本槍に
  数えられる武功を挙げた。七本槍は、
  加藤清正、福島正則、脇坂安治、加藤
  嘉明、平野長泰、片桐且元、糟屋武則
  の七人。
  戦後、この武功により、従五位下主計
  頭(かずえのかみ)に任ぜられた。
  小物見役から鉄砲150挺、与力20人を
  率いる物頭(将校)に昇進し、近江栗田
  郡に1800石、河内讃良(さらら)郡
  1097石、山城50石など併せて3000石
  を拝領した。

■小牧・長久手の戦いでは手勢150余を
  率いて参軍。九州平定戦では手勢
  170余と小軍勢で戦場に赴いた。
  九州平定戦で清正は宇土城の城番と
  して後方守備に就いた。
  戦後、肥後一国を統治していた佐々成
  政が国人一揆を押えきれず、大規模化
  させた罪で改易、切腹を命ぜられると、
  清正はその後釜として肥後半国19万
  5000石を領して、国人衆らを押える大
  役を負った。
  
■朝鮮の役では、前とは違い1万もの大軍
  を率いて出陣。豊臣軍の主力部隊とし
  て活躍。
  小西行長とともに先鋒を務めた。
  渡海して四年間もの激戦を強いてきた
  清正にとって、後方で物資輸送をしな
  がら情実で指揮を執る石田三成は、我
  慢ならない存在であった。
  渡海先での内部分裂は、年をおう事に
  悪化し、遂には三成の諫言で清正は、
  帰国命令が出され、自邸で蟄居処分と
  なった。
  その後、畿内で大地震が襲うと謹慎中
  の清正は後先構わず、伏見城にいた
  秀吉の下に一番で駆けつけ城の非常
  事態の警備をするという忠臣振りを見
  せた。
  この深い忠誠心を見た秀吉はすぐさま
  清正を謹慎処分から解き、再び渡海さ
  せて戦線復帰を果たさせた。

  渡海先では再び小西行長と先陣を争う
  など必ずしも協調の取れた働きを見せ
  たわけではないが、清正の武勇は一層
  磨かれた。

■秀吉の死で朝鮮の役は、あっけなく終
  結となり、なんら得るところなく疲弊して
  清正ら豊臣軍は帰国した。
  帰国後、淀殿などの支持を得た石田三
  成ら文治派は、幅を利かせていること
  を不満に思った清正ら武断派は、石田
  三成の居る館を強襲。
  今一歩という所で取り逃がすが三成が
  徳川家康の屋敷に逃げ込んだと聞くや
  そこへ向かい、三成の身柄引渡しを要
  請した。
  しかし、家康はこの要請は拒否し、畿
  内での乱戦は好ましくないとして三成
  を奉行職から辞させて、三成の居城・
  佐和山城へ送り届けてしまう。

■1600年、上洛を拒んだ会津の上杉景勝
  を討滅すべく徳川家康を総大将と討伐
  隊が組織されると豊臣家恩顧の武断
  派の武将たちはこぞってこの討伐隊に
  参軍。
  畿内が手薄になると石田三成ら文治派
  の武将たちは挙兵。東軍に属する諸城
  を攻撃して、美濃大垣城にて東軍を待
  ち構えた。
  関ヶ原の決戦が中央で行われている
  間、清正は九州の地に居た。
  清正は三成憎しから西軍に属した小西
  行長の宇土城などを攻略。戦後、小西
  行長の領土を加増され、肥後一国と豊
  後国の一部を領して54万石の大身とな
  った。

■54万石の大身を果たした清正は、大身
  者に恥じない名城を築こうと熊本城築
  城に着手。
  足掛け7年にも及ぶ大築城により、奥
  深い森林に包まれた山城が完成した。
  この熊本城は現在、日本三名城の一
  つに数えられている。清正が城作りの
  名人と呼ばれる由縁がここにある。
  時は降って明治維新後の西南戦争で
  西郷隆盛が官軍が篭城する熊本城を
  攻撃した時、西郷は”おいどんは政府
  軍と戦っているのではない。
  清正公と戦っているでごわす”と述べ
  たほど難攻不落の名城だったのだ。