加藤 嘉明
かとう よしあき
1563-1631
享年69歳。


名称:孫六
居城:伊予松前城→伊予松山城→
    会津若松城


■徳川氏家臣・加藤三之丞の子。
  父・三之丞は、三河一向一揆の争乱で
  一向衆側に加わり、その鎮圧戦を展開
  する徳川軍と戦った。

  徳川軍の鎮圧が強まると三之丞は三
  河を離れ、子の嘉明とともに出世目覚
  しい織田家の木下秀吉に仕えた。
  実力さえあれば出世の道が開かれて
  いる秀吉軍団の中で嘉明はメキメキと
  頭角を現し、賤ヶ岳の戦いでは七本槍
  に数えられる武功を立てた。
  この目覚しい軍功で嘉明は3000石を
  拝領し、その後も、秀吉軍団を代表す
  る武断派として各地を転戦した。

■やがて豊臣軍の水軍を率いるようにな
  り、朝鮮の役では水軍の将として活躍
  を見せた。
  文禄の役後、嘉明は軍功により、伊予
  松前6万石に加増された。

■秀吉が没すると長年、対立してきた石
  田三成ら文官上がりの将と激化状態と
  なる。
  三成を討つべく、嘉明は加藤清正、福
  島正則ら武断派らとともに三成邸を強
  襲。
  かろうじて逃れた三成は徳川家康の屋
  敷へと逃げ込んだ。
  武断派らは三成の引渡しを徳川方に
  要請したが、家康は畿内での争乱は避
  けるべきとして、引渡しを拒否。
  三成を奉行職から辞させて、家康の二
  男・徳川秀康をつけて佐和山城まで送
  り届けてしまう。

■1600年、関ヶ原決戦では嘉明は東軍に
  属し、活躍。
  東軍主力として活躍した嘉明は、伊予
  松山20万石を拝領して松山城に入っ
  た。
  1615年、大坂の陣では嘉明は、福島
  正則とともに江戸に留められ、監視の
  身となる。
  1627年、奥州会津48万石への加増が
  成される。
  1631年、江戸の藩邸にて没した。
  享年69歳。