豊臣 秀次
とよとみ ひでつぐ
1568-1595
享年28歳。


名称:次兵衛、孫七郎、三好信吉、関白
居城:山城聚楽第


■父は三好吉房。
  母は秀吉の姉・とも(瑞竜院日秀)。
  豊臣秀吉の甥で養子となる。

■1583年(天正11年)、賤ヶ岳の戦いで
  軍功を立てた。
  1584年(天正12年)の小牧・長久手
  の戦いでは、徳川軍とにらみ合った
  ままこう着状態が続くとこの打開策と
  して別働隊を組織することを秀吉に
  提言。
  別働隊による徳川氏本拠の三河を
  叩く戦略をともに支持した池田恒興
  、森長可に推され乗り気でなかった
  秀吉も渋々承知。
  秀次を総大将とする別働隊が三河
  占領を目指した進軍した。

  しかし、この敵地での行軍はすぐさ
  ま徳川家康の元へも知られるところ
  となり、先回りした徳川軍の奇襲攻
  撃によって、秀次指揮する別働隊部
  隊は壊滅。

  池田恒興、森長可ら豊臣軍の勇将ら
  をことごとく徳川軍に討ち取られ、秀
  次は命からがら落ち延びた。
  この失態で秀吉から酷く叱責を喰ら
  った秀次はしばらくの間、秀吉から
  粗野にされた。

■その後、秀吉の跡目を継ぐ者としては
  第一候補であったことから失態を許
  され、紀伊・四国平定戦に従軍。
  これらの合戦で戦功を挙げたことで
  、近江国43万石を拝領した。

  1590年(天正18年)、小田原征伐
  に従軍。
  戦後の人事移動で織田信雄が秀吉
  の移封命令を拒絶したため、改易処
  分となると秀次はその空白地となっ
  た尾張・北伊勢5郡を領した。

■1591年(天正19年)、秀吉の長男・鶴
  松が没すると、秀次は秀吉の養子と
  なり、関白となる。秀次は聚楽第を中
  心として大いに栄華を極めたが、159
  3年(文禄2年)、秀吉に二男・秀頼が
  誕生すると事態は急変する。

  ”殺生関白”などと悪評が出回り、数
  多くの妾をもったことなど素行の悪さ
  、仕舞いには秀吉への謀叛を企んだ
  という罪を吹っかけられ、1595年(文
  禄4年)、高野山へ追放処分となる。

  それでも罪が許されず、自害を命ぜ
  られ、同年7月15日、自刃して果てた。
  秀次の子や多くの妾は三条河原にて
  斬首され、秀次の血統はことごとく死
  滅した。