京極 高次
きょうごく たかつぐ
1563-1609
享年47歳。


名称:小法師、小兵衛、若狭守、侍従、
    従三位、参議、大津宰相
居城:近江八幡山城→近江大津城→
    若狭小浜城


■京極高吉の長男。
  母は、浅井祐政または長政の娘と
  される。
  1573年(天正元年)、浅井氏が織田氏
  との闘争に敗れ滅亡すると、京極氏は
  旧臣を集めて、織田氏に仕え、5000石
  を拝領した。

■1582年(天正10年)、本能寺の変後、
  明智光秀の誘いに応じて、羽柴秀吉の
  所領・長浜城を攻撃し、京極氏の旧領
  の回復を実現した。
  それもつかの間、山崎の戦いで明智軍
  が大敗すると高次は秀吉軍の追討を恐
  れて、越前・若狭へと逃れた。

  その後、高次の姉・松丸殿が秀吉の寵
  愛を受けたことで、反逆の罪を許され、
  京極氏は秀吉に仕えることとなった。

■高次は、九州平定戦や文禄の役などに
  従軍した。高次の正室は、秀吉の側室・
  淀殿の妹ということもあって、次第に京
  極家は引き立てられるようになり、高次
  の弟・高知の活躍もあって、1590年(天
  正18年)には、近江八幡山城に2万800
  0石を拝領。

  次いで、1595年(文禄4年)には、近江
  大津城6万石へと成長し、名族・京極家
  の復興を成し遂げた。

■秀吉が没すると、高次は徳川家康に通
  じた。
  1600年の関ヶ原の戦いでは、はじめは
  西軍につき、北陸征討軍に加わったが
  9月3日、大津に立ち戻り、篭城した。
  西軍の毛利元康らの猛攻を受けたが、
  9月14日、関ヶ原決戦前日まで大津城
  を支えたが、持ちこたえきれず、開城し
  て宇治、ついで高野山へと逃れた。

  戦後、西軍の一部を大津に引き付けた
  功績を賞して仕官を恥じる高次を実弟
  の高知に説得させ、若狭小浜城8万50
  00石を与えた。

  1601年には、さらに9万2000石に加増
  され、京極家の栄華を迎えた。