蒲生 氏郷
がもう うじさと
1556-1595
享年40歳。

名称:鶴千代、忠三郎、賦秀(やすひで)、
    侍従、左近衛権少将、洗礼名・レオン
居城:伊勢亀山城→伊勢松ヶ島城→
    会津黒川城(若松城)


■六角氏の重臣で、近江日野城主・蒲生
  賢秀の子。
  六角氏に代わって、畿内の覇者となっ
  た織田氏に父・賢秀が仕えると1568年
  、氏郷は織田氏への人質となる。
  信長にその有能な才能を見込まれると
  信長の伊勢攻めに従軍。
  その後、信長の娘を妻として近江の所
  領を安堵され日野城に戻る。

■以後、信長の親族衆に列して、浅井・朝
  倉攻め、伊勢長島一向一揆征伐、長篠
  の戦い、摂津伊丹攻め、伊賀攻めなど
  各地を転戦した。
  信長没後は、秀吉に仕え、滝川一益攻
  め、小牧・長久手の戦い、紀州攻め、
  佐々攻め、九州平定戦、小田原征伐と
  歴戦。豊臣軍団の中核的な存在として
  活躍した。

  数々の歴戦を経て、石高も急増し、
  1583年に伊勢亀山城主、次いで伊勢
  松ヶ島城主となり、12万石を領した。
  1590年には、会津黒川城42万石に
  移封され、奥州の地の抑えとした。
  その後、石高は92万石という破格
  の加増を受けている。

  これは名目として実は、秀吉が氏郷
  の智謀を恐れたため、中央から遠ざ
  けた人事移動だったといわれている。
  氏郷も「小身でも都の近くにいれば、
  いずれは天下の趨勢を狙うことがで
  きたであろうに、いかに大身でも会津
  のような遠国ではもはやその望みも
  断たれた」と嘆息したという。

■すぐれた武人であった氏郷は、それ
  と同時にすぐれた治世家でもあった。
  会津黒川城を若松城と改め、大規模
  な城下町の整備を図り、会津若松を
  奥州一の城下町にする計画を実施
  した。

■文禄の役では、九州の筑前名護屋城
  まで秀吉に従い赴き、秀吉本陣で待
  機していたが、その時に病を発し、大
  吐血の末、急死した。
  一説に京・大坂で急死したと伝えら
  れる。いずれにせよ、病状が異常で
  あったらしく、毒殺説もささやかれた
  という。

  利休のすぐれた門下として一流の風
  流人でもあった氏郷は、有名な辞世
  の歌を残している。

  ”かぎりあれば ふかねば花は散るも
  のを 心みじかき春の山かぜ”

  また、キリシタン大名・高山右近の薦
  めでキリシタンとなり、レオンの洗礼
  名も受けている。