竹中 重治
たけなか しげはる
1544-1579
享年36歳。


名称:半兵衛、重虎


■竹中遠江守重元の長男として美濃
  不破郡池田郷に生まれる。
  美濃不破郡岩手城、次いで菩提山
  城にて育つ。
  西美濃三人衆の一人、安藤守就の
  娘婿となる。
  1561年、急死した美濃国主・斎藤
  義龍に代わって、国主となった斎藤
  龍興に仕え、菩提山城主となり、1万
  石を領した。

■桶狭間の戦いで今川義元を討ち取っ
  た織田信長は、矛先を美濃攻略にあ
  て、大軍を率いて進軍してきた。
  この時、重治は長井隼人、日根野備
  中守ら斎藤家の重臣を説いて、重治
  の指揮の下、十面埋伏の陣という待
  ち伏せ戦法を用いて織田軍を壊滅状
  態に追い込んだ。
  織田軍の木下秀吉の機転により、な
  んとか織田軍は全滅を免れたものの
  、竹中半兵衛重治という名は、一躍
  名将として広まった。

■1562年、重治は主君・斎藤龍興が寵
  臣の斎藤飛騨守を重用して、累代の
  重臣である安藤守就らを遠ざけた事
  から、謀叛を起こす。
  安藤守就と共謀して重治は、弟・久作
  の見舞いと称して斎藤氏の居城・稲
  葉山城に入り、斎藤飛騨守ら龍興側
  近の無能者を粛正。
  主君・龍興を稲葉山城から追い出し
  、10数人たらずで城を乗っ取ってし
  まった。
  この動きに織田信長は、使者を送っ
  て、美濃半国を与える条件を出して
  重治らを抱き込もうとしたが、重治は
  その調略を一蹴して、翌年には、龍
  興を諫言して城を返してしまう。
  自らは不破郡栗原山の麓に隠遁。

■美濃国主の斎藤龍興は無能者では
  あったが、重治や美濃三人衆ら優秀
  な人材が臣下にいる斎藤氏を正攻法
  では倒せないと判断した織田信長は、
  調略や謀略を駆使して美濃攻略に
  着手。
  プレハブ工法で墨俣城を築いた木下
  秀吉を中心に調略戦を展開した。
  その結果、竹中重治、美濃三人衆(
  稲葉一鉄、氏家卜全、安藤守就)ら
  斎藤氏の有能な人材を織田氏に引
  き入れることに成功した。

  これにより、織田信長は念願の美濃
  一国を手中にし、斎藤氏のブレーン
  となっていた有能な人材も引き入れ
  ることができ、国力の増加と人材層
  の厚みを図ることに成功した。

■重治自身は、木下秀吉の与力となり、
  秀吉の名軍師としてその後は活躍し
  ていくこととなった。

  1570年(元亀元年)、朝倉氏攻めで
  は重治は木下軍の先鋒を務め、近
  江横山城攻めでも大いに活躍した。
  その後も、智略を駆使する秀吉軍団
  の知恵袋として各地を転戦し、天下
  屈指の名軍師と称えられるようになる。

■羽柴秀吉が中国攻め総司令官に就任
  すると重治は新たに秀吉の軍師となっ
  た黒田孝高とともに毛利氏、別所氏、
  宇喜多氏ら中国諸大名の攻略に着手
  した。
  備前八幡山城の調略成功を信長に報
  告するため上洛した重治は、信長より
  褒賞として銀子百両を与えられた。

  1579年、播州三木城の別所氏攻略の
  最中、重治は付城の平山城の本陣に
  て発病。
  秀吉の勧めで京都での療養に赴いた
  が回復の見込みなしと悟ると、”陣中
  で没することこそ、武将の本懐”として
  戦線へ復帰。平山の陣中で没した。
  享年36歳。