片桐 且元
かたぎり かつもと
1556-1615
享年60歳。


名称:助作、直倫、直盛、且盛、
  従五位下、東市正
居城:摂津茨木城


■浅井長政の家臣・片桐直政の子。
  主家の浅井氏が1573年に滅亡してし
  まうと、且元は浅井氏の旧領に入って
  きた羽柴秀吉に仕える。

■1583年、賤ヶ岳の戦いで七本槍の一人
  として活躍し、3000石を拝領した。

  その後、九州平定戦、小田原征伐に
  従軍。
  文禄の役では朝鮮半島へ渡海する
  など豊臣軍の一武将として各地を転
  戦した。
  その間に諸国の検地奉行や方広寺
  作事奉行など事務官としても活躍
  した。

■1595年頃には、一連の活躍が認めら
  れて、1万石を拝領した。
  1598年、秀吉の死の直前に且元は、
  豊臣秀頼付奉公人・側近の監察を命
  じられ、秀吉没後は、秀頼に近侍した。

■1600年、関ヶ原の戦い後も徳川家康の
  信任を得て、茨木城主となり、1601年
  には加増を受けて、大和竜田藩に移封
  となった。
  以後は、豊臣秀頼の名代・使節として
  家康に謁見するなど諸々の奉行役を
  勤めた。

■1614年、方広寺の鐘銘事件が起こると
  且元は、家康に謁見し、豊臣家にかけ
  られた嫌疑を晴らそうとしたが、家康は
  一切の弁明を受け入れず、粗野にされ
  て大坂城へ追い返されてしまう。
  しかし、淀殿の女中が使者となり、家康
  に謁見して弁明すると家康は、一転
  して丁重にもてなして、淀殿の使者が
  述べる弁明にも耳を傾け、嫌疑が晴れ
  たことを淀殿に伝えてくれるよう家康は
  述べた。

  且元は家康への弁明の余地無しと報
  告する一方で淀殿の使者は、家康が
  弁明を聞いてくれたと報告した。

  二人の使者の報告の違いのために
  且元は、わざと豊臣家を不利な立場に
  仕向けていると謀叛の嫌疑をかけられ
  てしまう。
  面目を失った且元は、秀頼の後見役と
  いう立場でありながら、発言権を失い、
  大坂城を退去してしまう。

  茨木城に入った且元は、逆に徳川方
  に味方して大坂の役後、その功績で加
  増を受けた。
  大和・河内・山城・和泉にまたがる4万
  石を領して片桐家の存続を見た且元は
  1615年、没した。
  享年60歳。