蜂須賀 正勝
はちすか まさかつ
1526-1586
享年61歳。


名称:彦右衛門、修理大夫、小六(ころく)
居城:播磨竜野城


■蜂須賀正勝は、尾張の土豪の頭目。
  織田氏や斎藤氏などに組する事無く
  独立集団を保っていた。
  これに目をつけたのが、織田家で出
  世が目覚しい木下秀吉である。
  秀吉は、美濃の斎藤氏を攻略する
  ため、に必要な墨俣城の築城を信長
  に任されると、蜂須賀正勝ら土豪衆
  を味方に引き入れ、わずか10日ばか
  りで墨俣城を完成させた。

  この秀吉の抜群の功績を支えたのが
  蜂須賀正勝ら土豪衆であった。

■その後、正勝は秀吉軍の武将として
  活躍し、主に秀吉の得意戦術の一
  つである調略の際にその交渉役を
  務めた。
  秀吉の中国地方攻略戦では、正勝
  は瀬戸内海の海賊衆を手なずけ、
  備前・備中・美作の諸城の引渡し
  交渉を成功させるなど活躍を見せ
  た。

  1573年、中国攻めの軍功により、
  正勝は播磨竜野城を与えられ、ま
  すます秀吉軍の重鎮として活躍した。

■1582年、秀吉軍が備中高松城を水
  攻めにして毛利の大軍とにらみ合
  っている時に、本能寺の急報が秀
  吉陣内に届くと正勝は秀吉軍の軍
  師・黒田孝高とともに毛利氏との
  講和交渉を勤め、見事その大役を
  果たした。

  これより、秀吉軍の中国大返しが
  敢行されると正勝は秀吉軍の主力
  部隊として、各地戦での勝利に貢
  献した。

■その後も小牧・長久手の戦いや四
  国征伐などに従軍し、秀吉の天下
  統一戦に活躍した。
  蜂須賀家は長年の功労を称えら
  れて、正勝の嫡子・家政に阿波一
  国が与えられるなど正勝は大名と
  しての成功も見た。

  1586年、秀吉の天下統一を見る
  事無く、秀吉の重臣・蜂須賀小六
  正勝は没した。
  享年61歳。