堀 秀政
ほり ひでまさ
1553-1590
享年38歳。


名称:菊千代、久太郎、左衛門督、侍従、
    従四位下

居城:近江佐和山城→越前北ノ庄城


■美濃の土豪・堀秀重の嫡子。
  堀家は美濃斎藤家の家臣であったが、
  秀政は幼少の頃から織田信長の側近・
  大野長治に養育され、その縁で秀政は
  若くして織田信長の近習となった。

■1572年、浅井・朝倉連合軍との戦い・志
  賀の陣では、布陣したまま動かない朝
  倉軍に対して、信長が決戦を求めた時
  、その織田方の使者として敵陣に向っ
  たのが秀政であった。

  当初、秀政は信長の有能な文官として
  活躍を見せ、安土宗論の奉行や和泉
  国の検地奉行など織田家の統治官僚
  を務めた。
  その間に伊勢一向宗攻めや紀州の雑
  賀一揆衆平定戦で軍功を挙げた秀政
  は、軍指揮が巧みな武官としても名を
  はせるようになる。

■1578年頃には、文武両道の有能な武将
  として秀政は近江長浜城の城将となり、
  2万5000石を拝領し、大名の仲間入り
  を果たす。

■その後も、摂津有岡城の荒木村重討伐
  や甲斐武田氏討滅戦などに従軍し、そ
  のすぐれた軍統制能力を如何なく発揮
  した。

  合戦で活躍を見せる一方で、上洛した
  徳川家康の饗応役を勤めるなど文武
  両面で活躍を見せた。

■1582年、羽柴秀吉の毛利攻めに加わり
  、備中高松城攻めを行っている最中、
  本能寺の変の急報が届く。
  秀政はそのまま秀吉と行動をともにし
  、山崎合戦で明智光秀を討ち果たした。

  その後、日の出の勢いを見せる秀吉
  に組した秀政は、賤ヶ岳の戦いにも参
  軍して、秀吉軍勝利に貢献した。
  合戦後、秀政は抜群の戦功を評され
  て、近江佐和山城9万石を拝領し、羽
  柴姓を授けられて、秀吉一門に列する
  という厚遇を受けた。

■豊臣政権下で立身出世が目覚しくなっ
  た秀政は、従四位下侍従に叙任され、
  四国平定戦や佐々成政討伐戦に従軍
  し、秀吉軍にとって欠くことのできない
  武将へと急成長した。
  豊臣政権の一翼を担う活躍を現した秀
  政は、凡庸な丹羽長重に代わって、越
  前北ノ庄城18万石を領し、中堅大名に
  列した。

■1590年、小田原征伐に従軍した秀政は
  、早川口の陣中で病死した。
  享年38歳。

  ”10万の大軍をも指揮する才を持つ”と
  称えられた名指揮官の若すぎる死を秀
  吉は深く悲しんだという。