伊達家武将一覧
伊達家の出自は、中納言山蔭六代目の子孫・実宗が常陸国伊佐荘中村に
移り住んで、伊佐または中村と称し、伊達家初代目当主・伊達朝宗はその
玄孫と伝えられる。
1189年、朝宗は源頼朝に従軍し、奥州合戦に出陣。伊達郡石那坂の合戦
で軍功を立てた朝宗は、伊達郡を拝領し、常陸の地から移り棲んだことから
伊達姓を名乗ったとされる。
しぶとい戦振りで奥州一の最強部隊として知られた伊達軍
の代表的な武将。白石精鋭部隊を率いて活躍す。
戦国時代最後の英雄として、秀吉・家康からその存在を
恐れられた。軍略の才は、秀吉・家康に匹敵した。
伊達家の奥州制覇を目指し、近隣諸国と死闘を繰り広げた。
嫡子・政宗の逸材を見抜き、政宗に伊達家栄華を託す。
伊達軍主力部隊を率いて、奥羽の地を縦横無尽に駆け巡る。
武勇は奥州一を誇り、秀吉、家康からも礼讃を受けた。
伊達家の外交戦術に大きく貢献す。
伊達家の中核を成し、伊達家の奥州制覇に尽力した。
伊達軍主力隊の一翼を担う。
政宗の軍略達成に大きく貢献した。
政宗の腹心であり、奥州屈指の智勇者として活躍。
伊達家一の忠義者として秀吉・家康を感嘆させた。
戦国時代屈指の美丈夫にして、父・景綱譲りのすぐれた
智勇を現した。大坂の役にて”鬼の小十郎”として恐れられた。
伊達政宗家臣団の中核を成した武将。
会津征伐では、名将・直江兼続と互角の戦いを演じた。
文武両道に通じ、伊達家の評定衆に列し、政宗の軍政面に
おいて欠くことのできない宿老として活躍。
奥州屈指の名族として、落ち目となった蘆名氏を見限り、
伊達家に寝返る。会津強兵部隊を率いて奮戦す。
伊達家重臣として、重用な政務を担当。
武功は少ないものの政務面で重きを成す。
伊達輝宗の外交戦術において、すぐれた使者として活躍。
織田信長、徳川家康などに謁見し、伊達家外交を推進した。
すぐれた若武者として政宗の側近となり、活躍する。
若くして数々の武功を立て、伊達軍の若き担い手となる。
伊達家四代に仕えた宿老中の宿老。
70過ぎの老体に鞭打って、敵軍と死闘を演じた。
伊達家の奉行職を歴任し、重要な政務次官として活躍。
宇和島藩伊達家の基盤作りに大いに貢献した。
伊達晴宗の代に伊達家一の宿老となり、栄華を極める。
輝宗との不和により、武運を無くし、没落す。
←1590年頃の伊達氏の勢力範囲。
伊達政宗、弱冠24歳にして、奥州に
覇をとなえるが如き、快進撃を続け、
急速な領土拡大を成した。
青紫色の部分が政宗にとって、生涯を
通じて、最大の領土範囲となる。
福島を中心に山形、宮城、岩手の四県
にまたがる広大な領土を有し、石高に
して約150万石余を誇った。
奥州最大の勢力を誇り、総動員2万余
を率い、奥州の残りの地、秋田、岩手、
青森を一挙に貫く勢いを見せた。
しかし、時運なく、豊臣秀吉の天下統一
という覇業の足音が関東・奥州の地に
近づいてきた。
当初、政宗も関東制覇に王手をかけた
北条氏と同盟を結び、豊臣氏に拮抗
する作戦を立てたが、豊臣軍20万に
よって、北条氏の小田原城が包囲され
た時点で、政宗は政局を見抜き、無謀
な抵抗を止め、豊臣氏に服属した。
※上記の地図は、『つわものどもの館』の
制作者の著作物です。無断使用は厳禁です。