伊達 政宗
だて まさむね
1567-1636
享年70歳。


名称:梵天丸(ぼんてんまる)、藤次郎、
    美作守、越前守、陸奥守、侍従、
    右近近衛少将、参議、権中納言、
    貞山禅利、独眼竜(どくがんりゅう)
居城:出羽米沢城→陸奥岩出山城→
    陸奥仙台城


■伊達輝宗の長男として、米沢城に生
  まれる。
  母は最上義光の妹・義姫(よしひめ)で
  ある。

■幼少の頃、疱瘡(ほうそう)を病み、
  右目を失明する。
  右目を失明したことを気にするあまり
  陰気な少年時代を過ごす。

  そのため、母・義姫は、美男子で利発
  な政宗の弟・竺丸を偏愛し、夫・輝宗
  に何度も梵天丸の廃嫡を願っている。
  政宗の母・義姫は、政宗を憎むあまり
  実兄の最上義光と謀って政宗を毒殺
  しようとした。我が子を手にかけようと
  したことから義姫は”奥羽の鬼姫”と
  呼ばれたという。

■無様な右目を苦に病んだ政宗は陰険
  な性格となっていたが、政宗の養育
  を任されていた片倉小十郎景綱は、
  若き政宗を叱咤激励して戦国大名と
  しての強い気力を持つことを教えた。
  景綱は主君・輝宗とともに逸材の覇気
  を持つ政宗を盛り立てていった。

■1577年、梵天丸は11歳で元服。
  名も政宗と改めた。この政宗という名
  は、伊達家中興の祖・伊達大膳大夫
  政宗からとったという。
  文武両道に優れ、伊達家を奥羽一
  繁栄させた中興の祖の名前を継がせ
  たところにも、父・輝宗の政宗への
  期待のほどを見ることができる。

■1579年、政宗13歳にて元服すると、
  三春城主・田村清顕の娘・愛姫
  (めごひめ・陽徳院)を娶った。

■1584年、政宗18歳にて父・輝宗より伊
  達家家督を譲り受け、伊達家当主と
  なる。
  政宗の実弟・竺丸を伊達家世継ぎと
  画策する義姫ら反政宗派の動きを封
  じ込めるべく、輝宗は電光石火の素早
  さで政宗に伊達家の家督を譲ったので
  あった。

■1585年8月、伊達家当主となって間も
  ない政宗は、かつて伊達家に属してい
  たのに、今では会津の蘆名氏と通じて
  いる大内備前を組み伏せるべく、大内
  氏の居城・小手森城を攻めた。
  これに対して、大内氏は会津の蘆名
  氏や二本松の畠山氏に援軍を要請。
  政宗は予想に反して、苦戦を強いら
  れたが、敵の隙を突いて、ついに小
  手森城を陥落させた。
  この時、再三にわたって、てこずらせ
  た城内にいる大内方の老若男女800
  人を見せしめのため、一人残らず斬
  首している。

  若き伊達家当主の苛酷なまでのこの
  処置に奥羽の諸将は息を呑んだ。
  奥羽の地に伊達政宗の名は鮮烈な
  印象与え、奥羽諸侯はみな、伊達家
  恐るべしとし、若輩者の政宗に一目
  置くようになった。

■政宗のこの強引な態度は、奥羽諸将を
  恐怖させるに足るものであったが、
  鬼の如き政宗の処置は、思わぬしっぺ
  返しにあうこととなる。

  小手森城の大内氏と手を組んで政宗
  と敵対していた二本松城主・畠山義継
  が合戦後、政宗に許されたことへの
  お礼言上を申し上げたいと偽り、輝宗
  の拠る宮森城を訪ねて来た。
  輝宗は寛大な態度で畠山一行を迎え
  たが警備が薄いことを見抜いた畠山義
  継は輝宗を拉致。そのまま、本拠地の
  二本松城へ向かおうとした。

  この知らせを受けた政宗は、鉄砲隊を
  引き連れて畠山一行を追撃。
  阿武隈川を渡ろうとする畠山義継らに
  追いつく。このまま二本松城へもと伊達
  家当主・輝宗が拉致されては伊達家
  家中に大きな動揺を生むことになると
  判断した政宗は、苦渋を飲んで輝宗
  もろとも畠山一行に銃撃を浴びせた。
  この時、輝宗が迷う政宗に攻撃するよ
  う命じたともいわれている。

  こうして、政宗の反撃にあった義継は
  輝宗を惨殺。これを見た政宗は50人
  あまりいた畠山一行をその場で一人残
  らず討ち取った。畠山義継の死骸は磔
  としてさらしたという。

  元伊達家当主・輝宗が惨殺されたこと
  は伊達家中に少なからず動揺をもたら
  すこととなったが、このことにひるまず
  政宗は伊達家家中を完全に掌握し、
  統制を図るとともに積極的に領土拡大
  戦へと乗り出すのであった。

■政宗の領土拡大侵攻は凄まじく、若武
  者とは思えない卓越した軍略を発揮し
  て奥羽の地を一挙に席巻していった。

  まず手始めに父・輝宗を惨殺した因縁
  のある二本松城の畠山氏を1586年に
  ことごとく討ち滅ぼすと、その勢いの
  まま、1588年には郡山合戦で田村家
  中をなびかせ、1589年、会津の雄・蘆
  名義広を摺上原にて打ち破り、会津四
  郡に仙道七郡を手中にした。

■さらに須賀川城の二階堂氏を滅亡させ
  ると、その麾下にいた石川昭光、白川
  義親を服属させ、福島の浜通り地方を
  除く福島、宮城両県から岩手県にまた
  がる広大な領土を獲得した。

  奥州藤原氏の勢力を抜くかの如き、
  広大な領土を制覇した政宗であったが
  この規模が生涯を通して、政宗が得た
  最大領土となる。
  天下をほぼ手中に収め、最後の関東・
  奥州だけと成っていた秀吉から帰参
  命令が出されていた政宗であったが、
  それを無視して、秀吉麾下を盟約して
  いた会津の蘆名氏を攻め滅ぼした。
  このことで政宗は秀吉から怒りをかう
  ことになる。

  関東の北条氏と手を結び、奥州全土の
  制覇を目指した政宗であったが、20万
  を超える大軍で関東一円に領土を制し
  ていた北条氏を破竹の勢いで侵略して
  いく豊臣方の勢いに政宗も軌道修正を
  余儀なくされた。

■政宗は遅ればせながら、秀吉に帰参す
  べく奥州の地を出発しようとしたが、
  出発の前日、実母・義姫と面談した際
  に酒に毒を盛られ、一時危篤状態と
  なる。

  しかし、機転を利かせた忠臣・片倉景
  綱によって、解毒薬を服した政宗は漸
  く危機を脱したのであった。
  この一連の謀略行為に激怒した政宗
  は、実弟・小次郎がいるために家中が
  乱れると英断し、小次郎を涙ながらに
  斬り捨てた。

  自らの手で実弟を斬り捨てた政宗では
  あったが、実母の義姫だけは殺せず
  にいた。義姫は命の危険を感じ、実兄
  が入る最上領・山形の地へと落ち延び
  て行った。

■秀吉への帰参直前に家中騒動が起き、
  その収拾に手間取った政宗であったが
  秀吉への完全服従は必至の状態で
  あったことはいうまでもなく、関東へと
  向った政宗は、秀吉に謁見するにあた
  って、水引で髪を結び、甲冑のうえに
  白麻の陣羽織を着用するという死装束
  のいでたちで参上した。

  さらに政宗は、秀吉の無二の親友で
  秀吉の副将とでもいうべき前田利家や
  秀吉の侍臣・施薬院全宗に働きかけ、
  秀吉の心証を少しでもよくしようと必死
  の努力をした。

  いざ秀吉に謁見すると毅然とした態度
  で潔く身構えた政宗の態度に感嘆した
  秀吉は、遅参と蘆名氏攻めの罪を許す
  という寛大な処置を取った。
  ただし、仙道南部と会津の旧蘆名領
  は没収とされ、政宗は42余万石という
  石高で安堵された。

■秀吉の怒りをかわした政宗は、黒川城
  から米沢城へと戻り、領土治世に励ん
  だ。
  この時、隣国の葛西・大崎で一揆が起
  こり、その鎮圧に政宗はあたることとな
  った。
  会津の蒲生氏郷とともに一揆鎮圧戦に
  活躍した政宗であったが、氏郷は政宗
  を快く思わず、一揆を影で扇動したの
  ではないかと疑い、大坂の秀吉に
  報告。

  秀吉は政宗を大坂へ呼びつけ、糾問
  することとなった。
  このときも政宗は、死装束に身を包み
  、大坂へ出立。秀吉が金ピカ好きと知
  り、金箔を張った磔刑柱を行列の先頭
  に立てて清洲に滞在中の秀吉のもとに
  乗り込んだ。
  秀吉は政宗が一揆を扇動した証拠とし
  て一揆に宛てた政宗の花押入りの書
  状を提示したが、政宗は、その書状の
  花押が偽物であると主張。

  政宗は、かつて秀吉などに宛てた書状
  を引き合いに出して、政宗の花押には
  全て、針の穴をあけていると述べ、偽
  物の花押にはそれがないとして真偽の
  ほどを訴えた。
  しっかりとした証拠を突きつけられた
  秀吉は政宗を許すほかはなく、再び
  政宗は窮地を脱したのであった。

■この一件の後、政宗は一揆鎮圧が成っ
  たばかりの荒れ果てた土地である旧葛
  西・大崎領に移封となり、玉造郡出山
  城に居城を移した。

■文禄の役に従い、朝鮮半島へと渡った
  政宗は、窮地に立った日本軍を救出
  するなど活躍した。

  その一例として、遠征してきていた日
  本軍は長引く戦の中、食料のほとんど
  が腐るなどのアクシデントが相次いだ
  がその時、伊達軍の食料だけが腐らな
  かったという。
  伊達軍の持っていた仙台味噌のおか
  げで食料が腐らず、これによって、日
  本軍は食料の危機を脱したことがあっ
  たという。

  また、政宗は、秀吉が大の派手好きで
  あることを知り、伊達軍の鎧を派手な
  色合いに染めた。これにより、秀吉
  の機嫌を取りつつ、秀吉の本隊近くに
  布陣できるようにして、戦場に出ずに
  すむよう工夫した。
  この派手な鎧から派手な者を”伊達
  者”と称すようになり、”伊達じゃない”
  などの語源となったといわれている。

■1595年、秀吉の跡目を継いでいた
  関白・豊臣秀次が粛正され、その一派
  が斬首されると、秀次と親交の深かっ
  た政宗もそれに連座されかけたが、こ
  の三度目の窮地も巧みに脱したのであ
  った。

■秀吉が没すると政宗は、次の天下人と
  なるであろう徳川家康に接近。
  1599年、長女の五郎八姫(いろはひ
  め)と家康の六男・松平忠輝の婚儀を
  成立させた。

  会津の上杉景勝が謀反の疑いありと
  称して、家康を総大将とする豊臣軍
  が会津征伐に出陣すると、政宗は奥州
  方として会津攻めに参軍。
  政宗は、上杉景勝とその部下にして名
  将・直江兼続らと死闘を演ずることと
  なる。
  この時、密かに政宗は家康への荷担を
  盟約し、家康から100万石のお墨付き
  の書状を得ていた。

  しかし、政宗は南部氏との国境地帯に
  いた和賀忠親の残党を扇動して、南部
  領を侵害するというこそくな策謀を行っ
  てしまったため、100万石の墨付を不
  意にしてしまう。

  念願の100万石を逃してしまったことを
  政宗は生涯惜しんだという。
  関ヶ原の戦い後の政宗への恩賞は、
  余りにも少なく、常陸に1万石など合わ
  せて、4万石程度にとどまった。

  政宗の実力を恐れた家康が結果として
  、褒美を少なくしたともいわれている。
  政宗自身も、後世になって、”もし
  100万石を得ていれば、天下を望んで
  いたことだろう”と述べている通り、独
  眼竜として諸将に恐れられた男に
  100万石を与えることは、鬼に金棒を与
  えるが如く、ことさら危険なことであっ
  たのだ。

■1601年、政宗は仙台青葉城を新たに築
  き、ここを居城と定め、同地名を千代か
  ら仙台と改め、奥州一の城下町を作り
  上げるべく尽力した。

■1608年、東北の雄として天下にその名
  を知られていた政宗は、徳川家より松
  平姓を許され、陸奥守に叙任されるな
  ど、徳川幕府にとっても一目置かれた
  存在となっていた。

■秀吉・家康に継ぐ天下之器と謳われた
  政宗は、日本国内だけに留まることなく
  家臣の支倉常長をノビスパン(メキシコ
  )経由でスペイン、イタリアに使節団と
  して派遣し、フェリペ3世、ローマ法皇ら
  に謁見させ、諸外国との貿易や外交を
  深めようとした。

  諸外国に宛てた政宗の書状には、奥
  州国王の名前が伊達政宗になってい
  るなど、心の奥底にある天下への野望
  をここでも披露している。

  そんな天下人への野望を捨てきれない
  政宗はメキシコとの通商を望んだが幕
  府がこれを許さず。
  外交や通商を通じて、妙な力を政宗が
  得ることを幕府は極度に恐れたためで
  あった。

  通商がかなわないことを悟ると政宗は
  親キリシタン政策を一変させ、領内の
  キリシタン弾圧を実施した。

■1615年、幕府の要請を受けて、大坂の
  役に出陣した政宗は、後藤基次、薄田
  兼相ら豊臣軍の主力部隊を撃破した。

  この時、伊達の騎馬鉄砲隊が目覚しい
  活躍を現し、敵味方ともにその驚異的
  な威力は恐れられたという。

■1626年、従三位権中納言に叙任され、
  徳川幕府のよき相談役となっていた政
  宗であったが、かつて、天下人之器と
  評されていただけに活躍の場を完全に
  失ったことは、政宗にとって退屈な晩
  年となっていた。

■1636年、江戸にあった政宗が病に倒れ
  ると、時の将軍・徳川家光が見舞いに
  訪れるなど幕府から厚遇を受けたが、
  回復する事無く、戦国時代最後の英雄
  は没した。
  享年70歳。

  天下人となった秀吉・家康にとって、最
  後まで油断のならぬ人物と映った政宗
  であったが、天下争奪を競うには、あま
  りにも出自が遅すぎた。

  秀吉・家康から見れば、親子ほどにも
  歳の差がありながら、自分の息子たち
  と政宗を見比べれば、子犬と大竜ほど
  にも才覚に差があることは何よりも恐
  怖したことであった。