北条家武将一覧
































北条 氏康 (ほうじょう うじやす)
1515-1571 享年57歳。後北条家三代目当主。

後北条家、中興の祖である。甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信など
強敵と戦うも一度も負けず、勝利か引き分けにする軍略の才を示した。

北条 氏政 (ほうじょう うじまさ)
1538-1590 享年53歳。後北条家四代目当主。

後北条家、長年の夢である関東制覇に王手をかけたが、父・氏康が
”二度汁の嘆息”で指摘した政局判断の甘さを露呈し、豊臣家より滅亡す。

北条 氏直 (ほうじょう うじなお)
1562-1592 享年31歳。後北条家五代目当主。

後北条家最後の当主。関東の覇者となるべく軍略に明け暮れたが、
時運を得ず、豊臣秀吉の覇業の前に屈した。

北条 氏照 (ほうじょう うじてる)
1540-1590 享年51歳。後北条家一門。

兄・氏政に従い、関東一円への勢力拡大戦に従事する。小田原征伐の際
には、野戦にて決着することを主張するも入れられず、腕を振るう事無く滅した。

北条 氏邦 (ほうじょう うじくに)
1541-1597 享年57歳。後北条家一門。

後北条家の関東制覇を目指し、軍略を展開す。家臣の単独行動にて小田原
征伐を誘発。豊臣軍に対し、野戦決戦を主張するが篭城案に破れた。

北条 早雲 (ほうじょう そううん)
1432-1519 享年88歳。後北条家初代目当主。

後北条家の祖。一介の浪人から下剋上にて、伊豆・相模二ヶ国の大名へと
のし上がった。上杉・足利氏の関東支配を突き崩した。

北条 氏綱 (ほうじょう うじつな)
1486-1541 享年56歳。後北条家二代目当主。

後北条家二代目当主として、北条家の関東支配基盤を築いた。
世代を超える、上杉・足利・里見氏との戦いの火蓋を切った。

北条 綱成 (ほうじょう つなしげ)
1515-1587 享年73歳。後北条家一門。

智勇は後北条家家臣団一を誇る。主君・氏康とともに苦境を乗り越え、
北条家の栄華達成を見る。北条家滅亡を見ずに没す。

北条 氏規 (ほうじょう うじのり)
1545-1600 享年56歳。後北条家一門。

後北条家、開祖の地である伊豆を守備する。小田原征伐後、後北条家
の生き残りとして、後世まで血統を残した。

北条 氏勝 (ほうじょう うじかつ)
1559-1611 享年53歳。後北条家一門。

祖父・北条綱成の名誉を汚さぬ武勇を現した。小田原の役で豊臣軍と死闘
を繰り広げたが敗退。敗将の恥辱を受け隠遁した。

北条 氏繁 (ほうじょう うじしげ)
1536-1578 享年43歳。後北条家一門。

父・綱成の智勇を受け継ぎ、北条家軍略の主軸を成す。
軍略に次ぐ、軍略により、多忙な日々を強いて急死した。

大道寺 政繁 (だいどうじ まさしげ)
?-1590 北条家重臣。

後北条氏による武蔵国統治の主軸を担った。小田原征伐にて、前田軍と戦う
も敗退。その後、豊臣方として北条氏を攻め、秀吉に不忠を責められ自刃す。

大道寺 直次 (だいどうじ なおつぐ)
?-? 北条家家臣。

後北条家で栄華を誇った大道寺家一門。
小田原征伐後、北条氏直に従う。後に徳川家光に召され所領を拝命した。

松田 憲秀 (まつだ のりひで)
?-1590 北条家重臣。

後北条家筆頭家老として君臨。北条家の栄華をともにしたが、小田原
征伐にて、没落。秀吉の命にて自刃して果てた。

成田 氏長 (なりた うじなが)
?-1595 北条家重臣。

後北条氏の武蔵国侵攻にて、北条氏に帰属。小田原征伐後、巧みな外交
で秀吉の機嫌を取り、関東の地に領土を回復した。

遠山 綱景 (とうやま つなかげ)
?-1564 北条家重臣。

後北条家重臣として活躍。房総の雄・里見氏との戦いである第二次国府台
合戦にて大いに活躍するも激戦の末、討死した。

遠山 政景 (とうやま まさかげ)
?-1580 北条家重臣。

江戸城代を勤め、房総の雄・里見氏の抑えとして活躍。
後北条家の関東一円への領土拡大にて栄華を見る。

板部岡 江雪斎 (いたべおか こうせっさい)
1537-1609 享年73歳。北条家重臣。

後北条家のすぐれた外交僧として活躍。すぐれた事務処理能力にて、北条家
栄華に貢献。のち豊臣秀吉、徳川家康にも仕えて手腕を振るった。

安藤 良整 (あんどう よしなり)
?-? 北条家家臣。

後北条家の有能な奉行として活躍。
北条家の領国支配の主軸として活躍した。

清水 康英 (しみず やすひで)
?-1591 北条家家臣。

北条水軍を率いた武将。小田原征伐の際には、長宗我部水軍、九鬼水軍
らで組織された豊臣水軍と勇敢に戦った。

笠原 康勝 (かさはら やすかつ)
?-? 北条家家臣。

北条氏の関東侵攻戦で先陣を勤め、その武勇を振るった。
氏康の武蔵国侵攻の際に大いに活躍す。

内藤 綱秀 (ないとう つなひで)
?-? 北条家家臣。

津久井衆を率い、甲州との国境を警備した。
小田原の役では、勇敢に豊臣軍と戦ったがその後、敗退し没落した。

笠原 美作守 (かさはら みまさかのかみ)
?-? 北条家家臣。

後北条家の開祖の地、伊豆国を守備し、伊豆衆筆頭として活躍。
清水康英とともに北条水軍を組織した。

垪和 氏続 (はが うじつぐ)
?-1580 北条家重臣。

後北条家屈指の重臣として、松山衆を率い活躍した。
北条氏の駿河侵攻の際には出撃し、甲斐武田軍と戦い駿河を死守した。

垪和 康忠 (はが やすただ)
?-? 北条家重臣。

後北条家有数の勢力を誇った。越後上杉氏、甲斐武田氏との同盟締結
に尽力し、有能な外交官として活躍。北条氏の領土拡大により上野に守備した。

松田 康長 (まつだ やすなが)
1537-1590 享年54歳。北条家重臣。

小田原衆に列し、後北条家の本国・相模国を守備した。
小田原の役では豊臣軍と死闘を繰り広げ、山中城落城とともに討死した。

上田 憲定 (うえだ のりさだ)
?-? 北条家家臣。

落ち目となった扇谷上杉家を裏切り、領土拡張し続ける後北条氏に仕える。
松山城主となり、城下町の整備に尽力し、市場開拓に貢献した。

猪俣 邦憲 (いのまた くにのり)
?-1590 北条家重臣。

北条氏邦の重臣として活躍。信州上田城に拠る真田氏と上野沼田の地を
めぐり抗争。小田原の役勃発の要因を作ってしまう。

富永 直勝 (とみなが なおかつ)
1509-1564 享年56歳。北条家家臣。

後北条家家臣団の一つ江戸衆に列した。
房総の雄・里見氏の抑えとして江戸の領地を守備した。

狩野 泰光 (かのう やすみつ)
?-? 北条家重臣。

後北条家の評定衆に列した重臣。北条家の政務面の重役として活躍。
伊豆・相模などの領国支配に手腕を発揮した。

小笠原 康弘 (おがさわら やすひろ)
1531-1597 享年67歳。北条家重臣。

父・元続とともに北条家の軍師として活躍。
北条氏滅亡後、徳川家康の軍師ともなり、その軍略を発揮した。

北条早雲が開いた後北条家は、鎌倉時代、執権職に就き、関東の地で栄華を
誇った北条家とはつながりがない。後北条家を開いた早雲も北条姓を名乗った
ことはなく、後北条家二代目当主・氏綱が関東の地を支配するのに名が浸透し
ている北条姓を名乗ったことに始まる。
早雲自身は、一介の伊勢の浪人であったが、駿河に赴き、今川家の内紛を静め
、大名としての権勢を得た。その後、伊豆足利氏の内乱に乗じて伊豆に侵攻した
早雲は、瞬く間に伊豆を支配し、巧みな統治で土民を手なずけ、勢力を張った。
その後、相模、武蔵と支配を広げ、関東一円に巨大な勢力を誇った。

←1590年頃の勢力地図。

1590年、後北条家の最大勢力は、伊豆、
相模、武蔵、下総、上総、下野の6ヶ国
に及び、常陸の佐竹氏、安房の里見氏
の領土にも侵攻しつつあった。
しかし、豊臣秀吉の小田原征伐によって
、関東制覇の夢は立ち消えるのであった。
もしも、北条氏、徳川氏、伊達氏の三国
同盟が成っていれば、豊臣氏と拮抗す
る天下分け目の一大勢力を築けたはず
である。
しかし、徳川氏の豊臣家への臣従により、
豊臣秀吉の天下制覇がほぼ決まることと
成る。
それでも関東制覇に王手をかけた後北条
家は、最大動員7万余を率いることができ、
常陸の佐竹氏、安房の里見氏を攻め滅ぼ
し、関東制覇がなった場合、10万以上の
大軍を動員可能であった。
この時点で伊達氏の最大動員2万余と合
わせれば、豊臣氏にとってかなり脅威とな
る拮抗勢力と成った。
しかし、常陸の佐竹氏、安房の里見氏を
一挙に制覇することができなかった軍略の
甘さが関東制覇の夢成就どころか、北条
栄華をも失う結果となった。

1590年頃の東日本の勢力地図