大友氏最盛期を迎えると肥前の龍造寺氏討滅を敢行。6万の大友軍を
率いて龍を追い込むが、武勇に突出した赤熊の強襲にあい討たれた。

大友 親貞 (おおとも ちかさだ)
1535?-1570 享年36?歳。大友家一門。

名門大内家の出として、毛利氏に呑まれた山口を取り返すべく、大友宗麟の
力を借り、一時の奪還に成功する。が、大友氏の救援なく孤立し滅した。

大内 輝弘 (おおうち てるひろ)
1520?-1569 享年50?歳。

主君・宗麟の悪政に不満し、謀叛を起こすも兵力に勝る大友軍に大敗。帰順し、
軟禁生活を送る。耳川合戦後、再度大友氏に謀叛するが時運を得ず、没す。

高橋 鑑種 (たかはし かねたね)
1528?-1579 享年52?歳。大友家一門。

博多の南蛮貿易の管理統制に尽力。中国地方の雄・大内氏との外交を
一手に引き受けた有能な外交官として活躍。支配統治に功績が多い。

臼杵 鑑続 (うすき あきつぐ)
1520?-1561 享年42?歳。大友家家臣。

大友氏筆頭重臣である豊州三老の一人。宗麟の名代として足利将軍に
謁見するなど重要外交に務める。大友氏の北九州制覇の指揮官にも就く。

臼杵 鑑速 (うすき あきすみ)
1538-1574 享年47歳。大友家家老。

大友氏一門として各地を転戦した。宗麟の悪政に耐え切れず、毛利氏ら
と結んで大友氏に反抗する。

立花 鑑載 (たちばな あきとし)
1522?-1566 享年47?歳。大友家重臣。

宗麟の憤怒により、四国へ逃亡。後に大友氏帰参が適うと大友氏による
四国侵攻を敢行する大友軍を先導した。激戦耳川合戦にて壮絶死す。

佐伯 惟教 (さえき これのり)
1525?-1578 享年54?歳。大友家家臣。

大友氏最盛期を築き上げた、豊州三老の一人。大友氏へ反乱する者を
なぎ倒し、智将・小早川隆景を敗走させた名宰相。

吉弘 鑑理 (よしひろ あきただ)
1520?-1571 享年52?歳。大友家家老。

幼き頃より利発者として世に知られ、大友氏倒壊を防ぐべく懸命に支えた。
紹雲が守る岩屋城の激戦は、戦国の世でもまれに見る壮烈な激戦となった。

高橋 紹雲 (たかはし じょううん)
1547?-1586 享年40?歳。大友家重臣。

戦国屈指の死闘を演じた父・高橋紹雲の才を受け継ぎ、名将として名高い。
英才にして気骨な人柄を秀吉・家康から愛された。

立花 宗茂 (たちばな むねしげ)
1567-1642 享年76歳。大友家重臣。

後年の宗麟を補佐した名軍師。バテレン陶酔で弱腰となった宗麟を助け、
大友氏滅亡を阻止した。反乱分子を各個撃破した。

立花 道雪 (たちばな どうせつ)
1513-1585 享年73歳。大友家家老。

若き宗麟を補佐した名軍師。宗麟の代役を勤め、すぐれた指揮統制能力を
現した。鑑生の尽力効果は、大友氏最盛期として現れた。

田北 鑑生 (たきた あきなり)
1500?-1561 享年62?歳。大友家一門。

主君・義統を補佐し、衰退した大友氏の最盛を目指す。
軍略の達人・黒田孝高との戦いに敗れ、討死した。

吉良 統栄 (きら むねひで)
1563?-1600 享年38?歳。大友家一門。

バテレン陶酔の将。キリスト教に帰依するも意外と強く大友氏の反乱分子
を各個撃破した。大友氏改易の要因を作り、改易後、雲散霧消す。

志賀 親次 (しが ちかつぐ)
1566-1600? 享年35?歳。大友家一門。

若き大友主君・義統を補佐し、大友氏運営に尽力。
耳川合戦後、田原親貫の乱、鎮圧にあたるも逆襲され、討死した。

木付 鎮秀 (きつき しげひで)
1538?-1580 享年43?歳。大友家一門。

耳川合戦後、落ち目と成り行く大友氏を助け、反乱軍の鎮圧に尽力。
島津軍の豊後侵攻に抵抗するもかなわず、軍門に降る。

志賀 鑑隆 (しが あきたか)
1530?-1588 享年59?歳。大友家一門。

大友家中最大の勢力を誇るも、主君・宗麟の横暴に憤慨す。
宗麟がバテレン陶酔に走るとこれを見限り、大友氏に謀叛した。

田原 親宏 (たわら ちかひろ)
1520?-1579 享年60?歳。大友家一門。

日々、戦塵にまみれながらも風流人として知られた。大友氏軍略の主軸を
成し、活躍したが一族の者から寝返りが出て、不忠のそしりを受け自刃した。

一万田 鑑実 (いちまだ あきざね)
1530?-1588 享年59?歳。大友家一門。

兄・義鑑の外交戦術の駒として利用されるも、後に逆襲し、大友宗家乗っ取り
を企てる。大友氏と泥沼の戦いを繰り広げた末、甥・義鎮に責められ自刃す。

菊池 義武 (きくち よしたけ)
1506?-1554 享年49?歳。大友家一門。

最強の大友家臣団を作り上げ、九州の三州を統治した。
家臣の乱行により、無念の失墜を見る。

大友 義鑑 (おおとも よしあき)
1502-1550 享年49歳。大友家当主。大名。

大友氏最盛期に家督を継ぐも父・宗麟とともに二頭政治を成し、家中を乱す。
衰退した大友氏を強襲する島津軍に必死で応戦するもままならず。

大友 義統 (おおとも よしむね)
1558-1610 享年53歳。大友家当主。大名。

九州の七割近くを一時支配したが、バテレンの宗教に没頭し、軍略を見失う。
耳川合戦で島津氏に大敗し、落ち目となる大友氏を救うべく豊臣氏に帰順。

大友 宗麟 (おおとも そうりん)
1530-1587 享年58歳。大友家当主。大名。

























大友家のはじまりは、古庄能直が相模国大友郷を領し、大友姓を名
乗ったことによる。能直は源頼朝の寵臣側近として活躍した。
その後、能直は豊後・筑後守護職、鎮西奉行職に就く。
南北朝時代では、武家方の中心勢力となり、活躍したが、一族間で南
朝方、北朝方に分断し内紛が続いた。
戦国時代に入ると中国地方の雄・大内氏と熾烈な戦いを続け、毛利氏
が台頭してくるとこれとも死闘を演じて斥け、大友氏最盛期を迎えた。
が島津氏に大敗し、防戦一方となり、結局は豊臣氏を頼るに至る。


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