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志賀 親次
しが ちかつぐ
1566-1600?
享年35?歳
名称:太郎、ドン・パウロ
居城:豊後岡城
■大友一族の庶流である北志賀家の出。
代々、志賀家は大友氏の加判衆を
勤めており、祖父・親守、父・鑑隆も
加判衆に就いている。
しかし、親次は大友家の加判衆を勤め
ていない。それは、親次の代の大友家
が衰退してきていたためである。
■親次は、キリスト教の熱心な信者となり
、ドン・パウロと名乗った。
1585年、島津軍がいよいよ大友氏の
本国である豊後国に侵攻してくると
親次は神の下、聖戦をこなし、度々
島津軍を撃退する武勇を見せた。
1587年、秀吉の九州平定が成ると、
島津軍を度々、撃退した親次は、秀吉
より感状を受け取り、その武勇を賞賛
されている。
■朝鮮の役では、主君・大友義統とともに
渡海し、勇敢に戦ったが、親次は戦況
を見誤り、撤退命令を下すよう主君・
義統に進言。
しかし、この撤退の最中に隊列が乱れ
結局、無様な撤退劇を演じてしまう。
この失態を怒った秀吉により大友家
は改易処分となる。
その後、親次の消息は不明となるが、
大友氏改易の主因を作ったことを
恥じて、自刃したとも、1600年の関ヶ原
動乱で大友軍に属し、黒田軍との戦い
で討死したとも伝えられる。
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