朝倉家武将一覧

朝倉家は北陸の名門として、室町時代から越前国を支配し、北陸地方
に栄華を誇った。
朝倉氏の祖は、日下部氏を称し、但馬国を本拠とし、その郡司を務めて
いた。その後、平安時代末に朝倉氏を名乗り、源平合戦に突入。
この戦いで、朝倉氏は平家に味方したため、後に源頼朝が台頭してくる
と所領を没収された。
後に許され、頼朝から木瓜二つの家紋を拝命し、この時から朝倉氏の
家紋は三盛木瓜となった。

南北朝争乱になると朝倉氏は足利尊氏に味方し、斯波氏に属して新田
義貞と戦い勝利を飾った。
この功績により、朝倉氏は尊氏より、越前国に七ヶ所の所領を拝領し、
越前朝倉氏の基盤ができた。

応仁の乱を経て、朝倉氏は、一向一揆と戦いながら、所領を広げてい
った。その後も一向衆との対立緩和のための統治政策を推し進め、
巧みに戦国乱世を切り裁いて、有力大名へとのし上がって行った。
越前文化を花開かせ、栄華を誇った朝倉氏も、織田信長の出現により、
急転落する。
信長包囲網の主力を成した朝倉氏は、一時は織田氏を窮地に追い詰
めたが、その後、信長により各個撃破され、一族・家臣の間から謀反が
相次ぎ、急速に衰退して、滅亡に至った。












朝倉 義景 (あさくら よしかげ)
1533-1573 享年41歳。朝倉家当主。大名。

一時は、足利義昭を奉じて、上洛を目指したが、家族の不幸に落胆。
野心消失後は、織田信長との熾烈な盛衰攻防を繰り広げ、滅亡す。

朝倉 景健 (あさくら かげたけ)
1537?-1575 享年39?歳。朝倉家一門。

朝倉軍団屈指の武勇を見せ、一時は織田軍を追い詰めた。
奮戦するも主家の滅亡により、織田氏に降った。

朝倉家より輩出された、戦国時代を代表する名将。
その遺訓は、戦国時代を知る貴重な資料となっている。

朝倉 宗滴 (あさくら そうてき)
1477-1555 享年79歳。朝倉家一門。

朝倉家庶流の出ながら、厚遇を受けた。時流に逆らわず、主家が衰退する
と織田家に寝返った。しかし、寝返り者の末路は、暗雲であった。

朝倉 景鏡 (あさくら かげあきら)
1530?-1574 享年45?歳。朝倉家一門。

名将として名高い、父・宗滴の名に恥じぬ活躍を見せた。
だが、織田信長の前には、伝統の軍略も歯が立たず。

朝倉 景紀 (あさくら かげとし)
1510?-1573 享年64?歳。朝倉家一門。

朝倉家太平時代に活躍する。
加賀一向一揆鎮定に腕を振るう。

朝倉 景隆 (あさくら かげたか)
1525?-1575? 享年51?歳。朝倉家一門。

勇猛として知られた真柄兄弟の兄の方。
一族郎党で奮戦を成したが、織田信長の首級は取れず。

真柄 直隆 (まがら なおたか)
1525?-1570 享年46?歳。朝倉家家臣。

若くして、武勇知略に秀でる。
暗躍する謀略によって、北陸制覇を目論むも、一向一揆にはばまれた。

富田 長繁 (とみた ながしげ)
1552-1575 享年24歳。朝倉家家臣。

朝倉氏、明智氏、柴田氏と仕える主君がことごとく滅亡す。
最期には前田氏に仕え、大名となる。大坂の役を見て、戦国の終焉を悟る。

山崎 長徳 (やまざき ながのり)
1552-1620 享年69歳。 朝倉家家臣。

越前朝倉氏において、栄華を誇ったが、主君・義景に見限られ、出奔。
織田家の厚遇を受けるも、周囲の嫉妬により滅亡す。

前波 吉継 (まえば よしつぐ)
1530?-1574 享年45?歳。 朝倉家家臣。

朝倉家滅亡後は、羽柴秀吉に仕える。
文官として活躍し、最期は故郷にて大名としての厚遇を得る。

溝江 長氏 (みぞえ ながうじ)
1550?-1610? 享年61?歳。 朝倉家家臣。