島津家武将一覧
島津家は、南九州三国(薩摩国・大隈国・日向国)にある日本最大の
荘園・島津荘を鎌倉時代より、代々に渡って、統治した。
島津家の始まりは鎌倉時代までさかのぼる。
1185年、源頼朝に薩摩の地頭を任ぜられた惟宗忠久が、赴任してその
地名を冠したことにはじまる。
分断された薩摩一国を統一すべく、武勇、策謀、外交と巧みな術数を振るった。
戦国史に残る最強の薩摩隼人集団を作り上げた。
九州制覇の野望成就のため、軍略を尽くす。急成長した島津家の組織を
巧みに統帥し、九州統一に王手をかけたが、時運なく日輪の子に屈した。
軍略の才は、島津家中随一を誇る。家久の軍略の前には、肥前の熊・
龍造寺隆信も討たれた。突出過ぎる軍才を持ったため、毒殺された。
薩摩隼人の鬼伯と成し、戦国最強の”つわもの”と恐れられた。
百戦錬磨の武勇を現し、あの徳川家康の肝を冷やした。
島津家の貴公子。祖父・義弘譲りの武勇を現す。
前代未聞となる前方戦場離脱を敢行し、その命をかけて、鬼伯義弘を守った。
島津四兄弟の中核を成す。
結束の固い島津軍を率い九州制覇戦に明け暮れた。
島津家の基礎固めに奔走す。
貴久による薩摩統一戦で敵との熾烈な抗争の中、強襲され散った。
当初、島津貴久に反目するも、その軍略に屈した後は、島津軍の先鋒となり、
活躍す。鬼伯義弘とともに重用な駒として活躍するも重用な局面前に没した。
島津家の重臣として活躍。島津家による九州制覇から豊臣氏への
恭順、徳川氏による所領安堵と島津家の盛衰安泰を見守った。
伊作島津家の貴久と島津宗家の覇権争いを繰り広げた。兄・勝久よりも
一枚上手の軍才を見せたが、貴久の前では歯が立たず、後に恭順した。
島津家の薩摩平定から九州制覇への永い軍略戦に参軍。
小大名から九州の雄へと飛躍した島津家栄華に貢献した。
島津家の家老として活躍。島津家の薩摩一国統治の実現を目指し尽力。
熾烈を極めた薩摩一国の平定戦を成し、島津家の栄華を見た。
薩摩示現流の開祖。剣術屈指の流派を編み出し、あの新選組でさえ、
薩摩示現流には、恐れを抱いたという。
九州の覇権をめぐって戦った耳川合戦を誘発させ、勝因となる武勇を現した。
九州各地へ転戦し、島津軍に”有信あり”と諸将からその武勇を恐れられた。
島津軍の九州北伐戦で大いに活躍を見せ、多数の軍功を挙げた。
兵力で上回る豊臣軍相手に奮戦したが、力尽き果てた。
島津軍の中核として活躍。九州制覇へ向けて、各地を転戦した。
豊臣軍の九州征討が敢行されると猛反撃を見せつつ戦場に散った。
島津義久の側近として活躍。義久の軍略に従い、各地を転戦。
島津家の九州制覇に多大な貢献を見せた。
当初は島津氏に反抗したが、巧みな島津戦略に屈し、島津家に帰属した。
その後は、島津家旗下として各地を転戦した。