島津 義久
しまづ よしひさ
1533-1611
享年79歳。


名称:虎寿丸、又三郎、三郎左衛門尉、
    忠良、義辰、修理大夫、
    薩摩大隈日向守護、従四位下
居城:薩摩内城


■島津貴久の長男として誕生。
  貴久の四子の長男として、島津家栄華
  成就の期待を一身に受けた。

  1566年、貴久より家督を譲られ、島津
  氏念願の薩摩一国平定の夢を託さ
  れた。

■1567年、前年に併合した蒲生領より菱
  刈氏攻めに出陣した義久であったが、
  牛山城を拠点とする日向の伊東氏、肥
  後の相良氏の支援を受けた菱刈氏の
  猛襲にあい三度、城を攻めたがいずれ
  も失敗し、撤退した。

  手痛い反撃にあった島津氏は、侵攻戦
  が一時、停滞したが1569年、菱刈氏を
  支援し続けてきた日向の伊東義益が
  急死したため、菱刈氏支援から手を引
  いてしまう。

  その結果、菱刈氏は島津氏と和議を結
  び島津氏は菱刈氏を帰属させることに
  成功する。
  これにより、北薩摩の土豪たちも島津
  氏に帰順し、ついに義久は薩摩一国平
  定を成し遂げた。

■その後も義久は、薩摩守護の島津氏の
  旧領を回復すべく侵攻戦を展開し、大
  隈・日向の奪回を目指した。

  この奪回戦で大活躍したのが義久の
  実弟・義弘であった。
  後世に戦国屈指の猛将と賞賛されるこ
  ととなる島津義弘の戦果は凄まじく、瞬
  く間に大隈・日向の二ヶ国を平定してし
  まうのであった。

  1574年に大隈の木付氏を帰属させ、
  大隈国を手中にすると次いで、1577年
  に日向の伊東氏を打ち破り、伊東氏の
  逃亡により、日向国を平定した。

■島津義弘の阿修羅の如き勢いに一敗
  地に呑まれた日向の伊東義祐が豊後
  の大友氏の下へ落ち延びてくると大友
  氏は、伊東氏の旧領回復を名目に5万
  の大軍を日向に派兵した。

  1578年、大友家当主・大友宗麟が5万
  の軍勢を率いて日向に侵攻してくると、
  島津氏はこれに応戦すべく、4万の大
  軍を日向に派兵してきた。

  九州の覇者をめぐって争う一大決戦・
  耳川の戦いが始まるのであった。

  島津軍は、大友軍が河を渡り、陣形が
  乱れた所を襲撃し、大友軍を押し出
  した。
  戦場が混乱すると高城から山田有信
  隊が城兵を加えて、密かに出陣し、大
  友軍の側面を襲撃した。

  この釣り野伏作戦は、強大な効果を上
  げ、大友軍は大混乱に陥った。
  この耳川の戦いに勝利した島津軍は、
  九州制覇に大きく前進し、逆に九州の
  雄・大友氏は勢力を縮小化させていく
  こととなった。

  まさに九州の覇者を決める一大決戦で
  あり、この巧みな戦術が多大な戦果を
  挙げたことで島津軍はより一層、特異
  な軍略に自信を持った。

■大友氏に大勝利したものの豊後で固い
  基盤を張る大友氏の領土を侵食する
  には、まだ時期尚早と判断した義久は
  、本国薩摩に隣接する肥後攻略に着
  手した。
  肥後国を制覇することで、本国薩摩を
  安寧させるのが狙いである。

  1581年、肥後の南半分を領有する相
  良氏の居城・水俣城を攻略し、相良氏
  を討滅した。
  肥後南半分を占領した島津氏の次の
  敵は大友氏衰退により、勢力を一挙に
  拡大させた5州2島を領する肥前の熊・
  龍造寺隆信である。

  義久は、まず現地の土豪を味方に引き
  入れるべく調略の手を伸ばし、反龍造
  寺氏の旗を掲げる有馬氏の協力を得
  ることに成功。

  現地の地理に通じる土豪の協力を得
  て、龍造寺氏に決戦を挑んだ。
  1584年、有馬氏の援軍を得て、義久は
  、実弟・家久を総大将とする島津軍精
  鋭部隊を投入。
  智略に長けた家久は、地理を活かして
  巧みな布陣を敷き、龍造寺軍が沖田畷
  という湿地帯に進軍してくるとそこを強
  襲。

  巧みな戦術で龍造寺家当主・龍造寺隆
  信を討ち取ることに成功する。
  この沖田畷の戦いで龍造寺氏は没落
  していくこととなったが、龍造寺隆信と
  義兄弟の契りを交わしていた名将・鍋
  島直茂の抵抗により、島津軍の侵攻は
  肥前全土には及ばなかった。

  その後、龍造寺家を継いだ政家の和議
  により、一応、龍造寺氏を帰属させるこ
  とに成功した島津氏は、九州制覇を目
  前にした。

■この島津氏の動きに対し、大友宗麟は
  自ら大坂へ赴き、天下人となりつつあ
  った豊臣秀吉に謁見。豊臣氏による九
  州平定を請う。
  豊臣氏が九州まで出張ってくると踏ん
  だ、義久は一挙に大友氏を討ち滅ぼし
  、九州制覇を成そうと焦った。

  1586年6月には、大軍を擁して大友氏
  の領土を席巻しようと急発進した島津
  軍であったが、岩屋城攻撃で思わぬ反
  撃にあう。
  岩屋城は小城であるため、一挙に占領
  できると踏んで、島津軍は猛攻撃を仕
  掛けたが、岩屋城主・高橋紹雲は巧み
  な戦術でこれをかわした。

  少数の兵団で守りながら、その士気は
  極めて高く、総員玉砕を決め込んで、
  頑強に島津軍の猛撃に耐えた。
  島津軍を足止めするほどの猛勇振りを
  見せた紹雲は、豊臣軍の援軍を待っ
  た。

  この攻城戦で、島津軍は多大な被害を
  こうむり、岩屋城を陥落した頃には、進
  軍する士気の低下を招くこととなった。

■1586年12月、大友氏の本国・豊後をほ
  ぼ占領するに至った島津軍は、豊臣軍
  の先鋒部隊と激戦に及び、長宗我部信
  親をはじめとする諸将を討ち取り、勝
  利を飾った。

  大友宗麟は、島城である臼杵城に立て
  こもり頑強に抵抗した。南蛮譲りの国
  崩れの大砲をぶっ放し、島津軍の侵攻
  を阻んだ。
  大友氏のしぶとい抵抗にあい、島津氏
  は九州制覇を成せず、豊臣軍との対抗
  準備を整えることができなかった。

  1587年に入ると、豊臣軍は25万の大
  軍を擁して九州に侵攻してきた。
  豊臣軍は頭数ばかり多いわけではなく
  、兵士の装備もよく整い、鉄砲の数も
  九千挺以上という破格なものであっ
  た。
  食糧の運搬から渡海するための船団
  の数まできっちりと取り揃えた豊臣軍
  の精鋭部隊を前にして、それまで島津
  氏に属していた諸大名は次々と豊臣氏
  に降伏し、孤立無援となった島津軍は
  まともな戦いもままならず、敗退。

  1587年5月8日、義久は頭を丸め、降
  伏。家督を実弟の義弘に譲り、自らは
  隠居した。
  義久を筆頭とした九州制覇の夢はほぼ
  実現するなどその才覚は戦国屈指と言
  うべきものがあったが、時運が伴わな
  かったことは言うまでもない。

  薩摩・大隈の二ヶ国に削減され、薩摩
  隼人は静かに鋒を収めたのである。