1587年頃の諸大名勢力地図
↑1587年頃の諸大名勢力地図
●九州地方
●中国地方
●四国地方
●近畿地方
島津氏は、島津義久を当主として、猛将・島津義弘の陣頭指揮の下、破竹の
勢いで九州制覇戦を展開。
島津軍は、本国の薩摩・大隈両国を平定後、余勢をかって、隣国の日向国・伊
東氏を攻め立てた。
この動きに対し、九州の七割近くを制覇し、栄華を極めていた豊後国を本国と
する大友氏が激怒。日向国・伊東氏が大友氏の下へ救援を求めに来ると、
大友宗麟は、大軍を率いて日向国へ侵攻。
1578年、日向国にて、島津軍VS大友軍の耳川の戦いが勃発した。
この戦いで大勝利を飾った島津軍は、日向を領有すると矛先を肥後・肥前両
国に向け、肥前国を本国とする龍造寺隆信と対決した。
1584年、肥前島原の地にて、島津軍VS龍造寺軍の沖田畷の戦いが勃発。
総大将・龍造寺隆信を討ち取り、龍造寺軍の名だたる勇将も数多く討ち取り、
島津軍は大勝利を得た。
当主を失った龍造寺氏を島津軍の軍門に降らせると、島津軍は、残りの大友
氏攻めに全力を尽くす。
夢の九州地方平定が目前にまで迫ったのである。
しかし、ここに至って、九州一の雄・大友氏の底力が発揮。名将・立花道雪、高
橋紹雲の勇戦にて、時間稼ぎをした大友氏は、大友家当主・大友宗麟自ら、
畿内の大坂城に赴き、天下人・豊臣秀吉に謁見。
大友氏の懇願により、豊臣氏の九州討伐が実現する。
1586年、豊臣氏による九州征討軍である四国勢で構成される第一陣が九州
の地に降り立つ。島津軍はこれを各個迎撃し、四国勢を撃滅。
長宗我部元親の御曹司で四国屈指の勇将・長宗我部信親をはじめ、”鬼十河
”の異名を受け継ぐ十河存保らを討ち取り、島津軍は豊臣軍との緒戦を勝利
で飾った。
豊臣秀吉は四国勢による九州征討軍第一陣が島津軍に撃滅させられると、
1587年に入り、本腰を入れて、九州平定戦を展開する。
中部地方の半分を所有する徳川家康が豊臣氏へ臣従したことで、後顧の憂い
をなくした豊臣軍は、畿内・中国・四国の諸大名に号令し、22万余の大軍
を擁して九州へと上陸した。
中国地方では、毛利氏が磐石の勢力を張り、織田氏との対決姿勢を見せてい
た。だが、1582年に織田信長が倒れ、羽柴秀吉がその後継となると毛利氏の
事情が変わってきた。
秀吉の懐柔策により、豊臣氏との盟友となった毛利氏は、秀吉の天下平定戦
に従軍するようになる。
同じく、秀吉と盟友となった宇喜多氏とともに、中国地方は、毛利、宇喜多、
豊臣の三氏によって、支配されることとなる。
四国統一をほぼ成した、長宗我部氏に対し、畿内を平定した豊臣氏が牙を
むいた。
長宗我部軍の抵抗も空しく、各方面から四国へとなだれ込んだ豊臣軍に各個
敗北を喫す。
豊臣氏に降伏した長宗我部氏は、秀吉の恩情により、土佐一国だけは安堵
となる。こうして、四国地方は、豊臣氏の新たな統治下となり、豊臣家の筆頭
重臣・蜂須賀正勝の所領となるなど、豊臣政権によっても本拠・大坂の地を
守備する上で重要な領土となる。
1582年、本能寺の変により、天下人として最も近くにいた織田信長が倒れる
と、畿内ではその後継者争いが過熱した。
謀叛者・明智光秀を山崎の戦いで打ち破った仇討ち功労の第一番となった
羽柴秀吉が織田氏の権勢を牛耳ることとなる。
秀吉の横暴に反抗する柴田勝家、滝川一益、前田利家、佐々成政、織田
信孝、織田信雄などを次々と打ち破り、同時に丹羽長秀、池田恒興、堀秀
政、細川忠興ら織田家重臣を取り込み、勢力の拡充を図った。
こうして、1583年頃には、反秀吉勢力を畿内より締め出し、秀吉の基盤作り
が強化されていった。
中部地方では、1582年に甲斐・信濃を領有していた武田勝頼が織田氏に
よって殲滅されると、その後、勢力地図が大きく流転を繰り返すこととなる。
三河・遠江・駿河を領有していた東海道一の弓取り、徳川家康は、甲斐・
信濃を領した織田氏とともに関東の地へと侵攻する形勢を見せた。
しかし、事態は本能寺の変によって、急変することとなる。
織田信長が倒れたことにより、関東平定戦を展開しつつあった織田軍が動
揺。北条氏との大事な決戦で敗退し、甲斐・信濃でも諸豪族が織田氏に
反乱を起こして、再び中部地方は混沌としてきた。
畿内は、羽柴秀吉が台頭してくることとなるが、中部地方では、この混乱に
乗じて、徳川氏と関東の北条氏による熾烈な空白地争奪戦が展開された。
結果として、徳川、北条の両氏は、甲斐・信濃両国を徳川氏が、上野国を
北条氏が領有することで和議を結ぶこととなった。
北条氏と同盟関係を作った徳川家康は、今だ混沌としていた畿内に目を向
けて行く。反秀吉勢力を断罪に処していた羽柴秀吉は、最大の強敵となる
徳川家康と対決。
越中の佐々成政、伊勢・尾張の織田信雄、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の
徳川家康と対立した羽柴秀吉は、北陸の地に独立していた越中の佐々成
政を攻め、これを軍門に降らせた。
越後の上杉景勝をも臣従させた秀吉は、北陸の地を前田利家に任せて、
中部平定戦へと準備をすすめた。
反秀吉の中枢となった織田信雄は、単独での対決はできず、後方の徳川家
康を頼った。家康もこの機に乗じて、秀吉との決戦を臨む。
1585年、小牧・長久手の戦いが起こると、家康の庭先での決戦ということも
あって、野戦上手の徳川家康が各戦ともに勝利を飾った。
野戦での戦いは泥沼化すると見定めた羽柴秀吉は、外交での打開を目指
した。反秀吉派の中枢にいたはずの織田信雄が単独で秀吉との和議に応じ
、秀吉に拮抗する勢力に相談もなく和解してしまう。
徳川家康は、畿内へなだれ込む大義名分を失うも頑強に秀吉に臣従しな
かった。が、秀吉の徹底した懐柔外交にさらされ、遂に秀吉への臣従を誓う
こととなった。
●中部地方
関東地方では、後北条氏を中心に勢力抗争が繰り広げられた。
房総半島の雄・里見氏は、智勇兼備の将・里見義堯、猛将・里見義弘が相
次いで没し、北条氏に拮抗する勢いを失う。
完全に北条氏に押し込まれた里見氏は、房総半島をほとんど北条氏に奪
われ、安房一国にて力なく抵抗を見せた。
一方、常陸の佐竹氏は、名将と名高い佐竹義重を頂いて、今だ勢力盛んに
して盟友の蘆名氏の援軍要請に応じて、奥州の伊達氏との決戦に派兵を
行うなど活発な行動を見せていた。
関東一円に勢力を張る、北条氏も佐竹氏を除くことができず、関東制覇が
今だ実現ならず。
●関東地方
1582年、越後の上杉景勝は、同盟者の武田勝頼が織田氏によって滅ぼさ
れると孤立無援となり、関東の北条氏と畿内の織田氏との挟み撃ちを受け
ることは必須の状況となった。
が、本能寺の変によって、織田氏が変調をきたすと、上杉氏にとって事態は
好転へと向う。新たに台頭してきた羽柴秀吉は、名族を重んじ、関東管領の
職を頂く上杉氏に対して、礼節を尽くし、天下平定戦への参加を求めてきた。
これにより、戦国の世に新しき秩序をもたらそうと義戦を重ねてきた上杉謙
信の意向が立ち、上杉氏はただちに秀吉への臣従を誓う。
越中にて独立を保っていた佐々成政は、大の秀吉嫌いにて、同じく秀吉に
拮抗する織田信雄、徳川家康と結託して、頑強に抵抗した。
これに対して秀吉は、大軍を擁して越中征討を断行。
ことごとく敗退した佐々成政は、降伏するに至って、北陸地方は平定を見た
。この後、北陸地方は、前田利家と上杉景勝を中心に統治されることとなっ
た。
●北陸地方
伊達氏の家督を継いだ伊達政宗は、1585年、伊達氏の傘下となっていた
小浜城の城主・大内定綱に対して、二本松の畠山氏、会津の蘆名氏とよし
みを通じたとして、討滅戦を展開。
大内氏を打ち破ると、余勢をかって二本松の畠山氏をも降し、伊達氏は
一大勢力を奥州の地に張ることとなった。
若き伊達家当主の活躍に拠って、一躍脚光を浴びることとなった伊達氏で
はあったが、二本松の畠山氏の突然の謀叛によって、政宗の父・輝宗が
討たれると事態は急変する。
勢い付く伊達氏の討滅を図った会津の蘆名氏は関東常陸の盟友・佐竹氏
の力も借りて、伊達氏への攻撃を開始。
人取橋の戦いが展開される。
1万足らずの伊達軍に対して、蘆名・佐竹・二階堂らの連合軍は、3万1千
余の大軍。
3倍以上の兵力差がある中、伊達軍は勇敢に戦い、敵連合軍に圧勝した。
伊達軍のしぶとく粘り強い戦い振りは、奥州全土に轟き、伊達氏の奥州
制覇も夢ではなくなってきた。
伊達氏は、その後も強敵・蘆名氏と熾烈な戦いを繰り広げていった。
●東北地方