1580年頃の西日本の勢力地図
↑1580年頃の西日本の勢力地図
●九州地方
●中国地方
●四国地方
●近畿地方
1578年、九州分け目の決戦・耳川合戦で九州の七割近くを
支配した大友氏を南九州の覇者・島津氏が打ち破り、九州
の勢力範囲は瞬く間に激変することとなる。
国人領主らの反乱が相次いだ大友氏を見て、すかさずその
軍門に降っていた肥前の龍造寺氏が挙兵。
肥前一円に勢力を拡大させ、大友氏領土の筑前・筑後・肥後
・豊前・豊後を侵食。
大友氏は、本国・豊後と名将・立花道雪が死守する筑前、肥
後のごく一部を領し、国人領主や龍造寺氏、秋月氏の侵攻
に苦戦を強いられた。
これにより、1580年頃には、九州では南九州の島津氏、北九
州では、大友氏と龍造寺氏が入り乱れ、三国鼎立時代を迎
える。
中国地方では、近畿地方を掌握した織田信長が中国攻めに本腰
を入れて取り組み、1580年4月頃には、中国攻め総大将を勤める
・羽柴秀吉の手により、播磨姫路が陥落。
毛利氏との直接対決が避けられない情勢となる。
織田氏への牽制攻撃をしてきた毛利氏は、摂津の石山本願寺に
海路、補給物資を運搬し、織田氏と対立する勢力に軍事援助を惜
しまなかった。
しかし、1580年に入り、織田氏の考案した鉄船により、当時・最強
を誇った毛利水軍を撃滅。石山本願寺への海路、補給物資運搬を
阻止した。
これにより、情勢は一気に織田氏有利に展開し、ついに石山本願
寺は、正親町天皇の仲裁を受け入れ、織田氏に降伏した。
こうして、後顧の憂いを無くして中国攻めへ本腰を入れることが可
能となった織田信長は、織田家中きっての智将・羽柴秀吉を投入。
瞬く間に但馬・播磨は陥落し、新たに毛利氏が支配した因幡を強
襲しようとしていた。
毛利氏に忠誠を誓っていた備前の宇喜多直家は、謀将として有名
な上、裏切りを繰り返してきた遍歴を持つ者。密かに中国攻め総
大将となり、破竹の勢いを見せる羽柴筑前に内通し、形勢次第で
は毛利氏に反逆し、織田方の大名として毛利氏に反撃しかねない
緊迫した情勢であった。
土佐国を中心に一円に勢力を拡大させた長宗我部元親は、西方
に伊予国・河野通宣、西園寺氏、土佐中村に一条兼定と対立し、
東方では、讃岐・阿波国の十河氏と対立した。
一方で近畿地方を制圧した織田信長に対して、幾度となく使者を
送り、友好を深めている。
織田氏の天下となることを見越して、長宗我部家は、織田氏に従う
方針であった。
1570年頃から1580年頃まで、足掛け10年にも及ぶ織田氏と石山本
願寺との抗争は、織田氏が鉄船団を作り上げ、毛利氏が石山本願
寺に送る補給物資を阻止したことにより、決定的な情勢の優劣が決
まる。
篭城作戦がままならなくなった石山本願寺は、正親町天皇の仲裁と
いう助け舟によって、滅亡を免れ、織田氏の軍門に降った。
こうして、近畿の動乱はほぼ、織田氏によって鎮静され、久々に近
畿地方は、一時の平穏が訪れた。