↑関ヶ原合戦軍勢配置図C
関ヶ原合戦−軍勢配置図C
ここに天下分け目の関ヶ原の戦いは、雌雄を決した。
合戦前半は、東軍の猛攻を凌ぎ、西軍が押し出すという西軍優
勢の状況が続いた。東軍が関ヶ原盆地に密集する状態となった
時、西軍には勝利の兆しが見えていた。
未だ合戦に参加していない無傷の部隊が3万以上もあり、しか
も東軍の横合いから攻め込むには、絶好の場所を確保してい
た小早川隊と東軍後方に位置する毛利隊がいた。

作戦系統がしっかりしていて、現代の軍隊のように絶対命令主
義であれば、西軍に勝利の女神が微笑んだことだろう。
しかし、世は裏切り正道を行くが如し、戦国乱世である。西軍主
力の必死の奮戦も虚しく、東軍包囲作戦は遂行されなかった。
昼すぎには、小早川隊の裏切りにより、西軍の崩壊は決定的と
なる。精鋭を誇った大谷隊の撃沈、勇猛を東軍に見せつけた小
西隊の敗走。西軍主力を誇り、最大の激戦を演じた宇喜多隊の
敗北。
最後の最後まで2倍以上の大軍を相手に一歩も防衛線を突破
させなかった力戦の石田隊も勇猛な奮戦後に再起を目指して
敗走した。

残る西軍は、未だ合戦せずに陣営を堅固に守備する島津隊150
0ほどの手勢のみ。この島津隊だけが関ヶ原に留まったままでい
て、主戦場のはるか西方の南宮山に毛利隊ら諸隊だけが布陣
していた。
■午前3時ごろ■
島津 義弘  750
島津 豊久  750
福島 正則  3500
小早川 秀秋  14000
本多 忠勝  500
井伊 直政  3600
松平 忠吉  3000
島津隊は終始攻勢することなく、攻め入るものを防戦するだ
けであとはただ傍観していた。それだけに無傷で手勢1500を
保持していた。
しかし、敗走すれば必ず東軍の激しい追撃が予想され、一矢
も報いずに敗走するのは御免であった。
島津隊を率いる島津義弘は、島津の強さを天下に示すことが
大事として、敵軍の横を通り、前方へと戦場離脱するという前
代未聞の妙案を敢行することにした。

薩摩隼人の鬼伯(きはく)と成した島津義弘ならではの粋(いき)
な作戦である。勢いづく東軍は、不動の布陣を布く島津軍へ攻
撃を開始。
福島正則、本多忠勝、小早川秀秋ら諸隊が猛攻をかける。
激闘の末、1500あった島津軍は半減し、にわかに陣形が乱れ
出した。義弘はもはやこれまでと徳川軍本隊への突撃玉砕を
敢行しようとしたが、孫の島津豊久に諌められ、戦場離脱を
決意。義弘は島津軍残兵に対し、島津家の家紋を全て外させ
て、島津軍と人目ではわからないようにしてから前方離脱を
開始した。
島津軍の気迫に驚いた東軍は思わず左右に分かれて島津軍
に道を作ってしまう。われに返った東軍は、すかさず島津軍追
尾を開始。
福島隊、本多隊、井伊隊、松平隊、小早川隊らが猛追撃した
が、島津軍は、ステガマリ戦法という追撃撃退の戦術を駆使し
、追撃してくる東軍をなぎ倒した。
ステガマリ戦法とは最後尾の兵士たちが捨石となて、その場
に踏みとどまり、本隊を逃がす作戦で追撃部隊を手惑わせる
壮絶な戦術である
牧田烏頭坂(まきたうとうざか)の辺りで島津豊久が壮絶な討
死を果たし、島津家重臣・阿多盛淳(あたもりあつ)も義弘の
身代わりとなり、獅子奮迅の奮戦を見せて絶命した。
義弘率いる島津本隊は、牧田川にさしかかる頃には、従う者
はわずか80騎ばかりと激減していた。
ステガマリ戦法に手間取る追撃隊ではあったが、井伊直政隊
と松平忠吉隊が最後の追撃戦を島津軍に挑むと島津軍は最
後の気力を振り絞り、決死の反撃を展開。
この戦いで直政は、腕に被弾し重傷を負い、松平忠吉も槍傷
を受けて重傷の身となる。
この奮戦の中に飛び込んだ本多忠勝も馬を打ち抜かれ、馬も
ろとも地面に転がり落ちた。
この鬼武者のような奮迅ぶりに恐れおののいた福島隊、小早
川隊は手出しせずに島津軍を遠巻きで見守る。
この隙をついて島津軍は悠々と撤退していった。

VS

島津隊の必死の戦場離脱を見た南宮山の毛利隊ら西軍諸隊は、
西軍敗退を明確に知り、伊勢や近江を目指してわれ先に逃亡して
いった。

これにより、午前8時より始まった関ヶ原合戦は、午後3時には終結
し、およそ8時間ほどで勝敗が決し、終了した。
この戦いで東西両軍あわせて、およそ6000名ほどの戦死者が出た
といわれている。

戦国最大の野戦はこうして終了し、それと同時に再び氷雨(ひさめ)
が関ヶ原戦場に降り注ぎ始めた。
■午前3時ごろ■