↑関ヶ原合戦軍勢配置図
関ヶ原合戦−軍勢配置図A
西暦1600年9月15日午前8:00
東西両軍が関ヶ原を挟んでにらみ合い、濃い霧が晴れ上
がるのを待つ。
両軍を包む霧がようやく晴れる兆しが見えた頃、30騎ほど
の赤鎧の一団が東軍先鋒の福島正則隊の横を通りすぎ
ようとする。”井伊の赤備え”の一団で井伊直政と徳川家康
の四男・松平忠吉が率いている。

福島隊の可児才蔵は、これを見とがめて抜け駆けは軍法
違反とばかりに行く手を阻む。しかし、物見と偽り福島隊の
前に踊り出た松平・井伊隊は、西軍主力の宇喜多隊目掛け
て鉄砲を撃ち掛け、抜け駆けの合戦の火蓋を切った。

徳川軍主力を率いる徳川秀忠が未だ関ヶ原戦場に到着し
てはおらず、東軍は豊臣家恩顧の部隊が主力という有り様。
ここに至って、開戦を切る誉れまでも豊臣家恩顧の武将が
勤めたとあっては、末代までの恥じとばかりに徳川家直臣
の抜け駆けによる開戦の火蓋を切ったのである。

徳川家直臣の先陣抜け駆けに憤慨した福島正則ではあっ
たが、すかさず鉄砲隊800を前進させ、西軍主力の宇喜多
隊に浴びせ掛けた。
これとほぼ同じ頃、東軍右翼先陣を勤める黒田長政隊から
も開戦の合図の煙が上がり、次いで、西軍の石田三成隊、
小西行長隊からも開戦の煙が上がった。
■午前9時ごろ■
石田 三成  4000
島 左近    1000
蒲生 郷舎  1000
豊臣麾下   2000
黒田 長政  5400
細川 忠興  5000
加藤 嘉明  3000
筒井 定次  2850
田中 吉政  3000
黒田長政、細川忠興、加藤嘉明、筒井定次、田中吉政ら東軍
諸隊が西軍総大将代理の石田三成本営を猛攻。
石田三成は、石田隊の前衛部隊である島左近隊、蒲生郷舎
隊をもって東軍に応戦した。

石田隊は2倍以上の東軍相手によく奮戦した。
特に島左近の勇猛振りは後世まで語り継がれる活躍を見せ
た。左近は、猛攻する東軍に対し、部隊を巧みに展開させ、東
軍を翻弄。東軍の正面攻撃を斥けると今度は、攻勢に転じ、部
隊を二分して一隊を柵前にとどめて守備を固め、一隊を自ら
率いて、東軍右翼の先陣である黒田隊の中央目掛けて突撃。
黒田長政は正面攻撃は愚策と判断。密かに鉄砲隊を右前方
の小さい丘に迂回させ、島隊の左翼を狙い撃ちする作戦を
取る。
黒田隊の鉄砲隊が島隊の左翼を狙撃するのにあわせて、正面
からは、生駒一正(いこまかずまさ)、戸田逵安(とだみちやす)
らが指揮する鉄砲隊が発砲した。

島隊は前方と左翼から激しい銃撃を浴び、少なからず被害を
出したが、それでも黒田隊への突撃を緩めず。
激しい激戦の中、ついに島左近が銃撃を浴び、負傷すると島
隊は後退を余儀なくされた。

島隊が後退するとにわかに活気付いた東軍が再び攻勢に転
じた。石田隊本営を防衛する蒲生郷舎の部隊へ猛攻を掛ける。
蒲生隊は必死の防戦を展開したが多勢に無勢。蒲生隊の防
衛線がにわかに崩れ始めた。

西軍本営が崩壊か?と思われた瞬間!三成の秘密兵器が火
を噴いた。石田隊本営がある笹尾山にすえつけた大筒5門を
使用したのである。
大筒は砲身約1m、射程2km。突撃してくる東軍に対し、抜群の
効力を発揮し、たじろぐ東軍を石田隊は押し返し、東軍の前線
は100mも後退した。


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西軍主力の宇喜多隊と東軍の福島隊が正面から激突。
宇喜多隊は、鉄砲隊1000を福島隊に浴びせかけ、次いで
武勇者として名高い宇喜多隊の武将・明石全登(あかし
てるずみ)率いる前衛部隊を福島隊へ突撃させた。
福島 正則  6000
宇喜多 秀家  17000
■午前9時ごろ■

東軍の藤堂高虎、京極高知の部隊は、東軍の福島隊の後方を
通って、大谷吉継とその支隊である戸田重政、平塚為広と激突。
大谷隊は、藤堂隊、京極隊の猛攻を凌ぎ、奮戦した。
藤堂 高虎  2490
京極 高知  3000
大谷 吉継  600
戸田 重政
平塚 為広  900
■午前9時ごろ■
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開戦の火蓋を切る誉れを取った、井伊直政、松平忠吉の部隊は、
”戦国最強のつわもの”と恐れられる島津義弘の部隊と対峙。
井伊 直政  3600
松平 忠吉  3000
島津 義弘  750
島津 豊久  750
■午前9時ごろ■
VS

織田有楽、古田重勝、寺沢広高ら東軍部隊は、西軍陣営中央
に布陣する小西行長の部隊に猛攻をかけた。
織田 有楽  450
古田 重勝  1200
寺沢 広高  2400
小西 行長  4000
■午前9時ごろ■
■午前10時ごろ■
■午前10時ごろ■
■午前10時ごろ■
■午前10時ごろ■
■午前10時ごろ■
石田隊は大筒砲撃により、東軍の進撃を撃退。東軍が大筒攻撃
にひるみ退いた間に陣形を立て直し、再び堅固な布陣をとった。
戦闘中の兵力数では劣る西軍は、よく奮戦した。
これにいらだった東軍総大将・徳川家康は東軍本営を桃配山から
下山し、石田隊本営の笹尾山から数百メートルの陣場野に移した。
東軍本営が戦場近くまで出張ってきたことで、東軍は落ち込んだ
戦意を再び大きく上げることに成功する。
黒田隊、細川隊、加藤隊、田中隊ら諸隊は、石田隊に猛烈な攻撃
を再び行い、この大攻勢で石田隊は前衛の防御線を崩され、とうと
う矢来の柵内へと追い詰められた。
大谷吉継隊は、藤堂隊、京極隊を引きつけて奮戦。大谷隊の
支隊である戸田重政、平塚為広の部隊は藤川を越えて東軍の
戦線に進撃し、東軍陣営をかく乱させた。
小西行長隊は、東軍の織田隊、古田隊、金森隊、寺沢隊と激戦
し、一歩も退かない善戦を展開。遂には、西軍の小西隊が東軍
の寺沢隊に攻め込み、この攻撃にたまらず寺沢隊は南へ反転し
て戦線離脱をするなど西軍優勢の戦いが繰り広げられた。
東西両軍が入り乱れて混戦する中、この刻限、最大の死闘を
繰り広げたのが西軍主力の宇喜多秀家隊と東軍随一の猛将・
福島正則隊である。
福島隊は、歴戦の勇将である福島正則の指揮の下、可児才蔵
ら勇猛果敢な武者が宇喜多隊に突進していった。
これに対して宇喜多隊は、武勇名高い明石全登らが率いる前衛
隊が応戦。巧みな部隊指揮で福島隊を退ける。
兵力が勝る宇喜多隊は攻勢に転じて、一挙に福島隊を押し出し、
これによって福島隊は最初の陣営よりも500mほども後退を余儀
なくされた。
自分の陣営を崩されたことで憤激した福島正則は、逃げ惑う部下
を一喝して再び部隊の士気統制を図り、陣形を立て直す。
福島隊の渾身の突撃で今度は、出張った宇喜多隊が退く。

西軍がよく奮戦している中、島津隊は真正面に布陣する東軍の井伊
隊、松平隊に攻撃を仕掛けることなくただ傍観していた。
左側では石田隊が壮絶な攻防戦を繰り広げ、右側では小西隊が東
軍を追い回すほどの勇戦を見せていた。

しかし、島津軍はただ自軍の陣営の防備を堅く守るだけで、一向に
合戦へ参加する気配を見せない。
島津軍の大将・島津義弘は、西軍が頼みとする戦上手であったが、
義弘は前日、大垣城で開かれた西軍の軍議の席で主張した夜襲作
戦が斥けられたことを不服として合戦不参加を決め込んでいた。

兵数は1500ほどの手勢ではあったが、島津軍兵は一人一人が鉄砲
を装備し、歴戦の猛者がそろう鬼武者の集団である。
それだけに一度、合戦に参加すれば、10万の援軍を得たに等しい効
力を持つ。そのことを十分知っていた西軍総大将代理の石田三成は
、家臣の八十島助佐衛門(やそじまひこざえもん)を島津隊に遣わし
援軍を求めたが、下馬せずに口上を伝えたため、無礼者呼ばわり
されて、即座に追い返されてしまう。
使者の失態を知った三成は、今度は自ら島津隊へ赴き、助力を請う
がそれも島津豊久に冷たく断られた。
”今日の戦いは、各隊がそれぞれ各個の戦いに全力を尽くすのみ。
前後左右の隊の戦いをかえりみている暇はない”と豊久は述べ、
三成はしぶしぶ自陣へ引き返した。
■午前11時ごろ■
開戦から3時間ほど経過しても今だ東西両軍は混戦を繰り広げ、
勝敗の行方は不透明なまま、こう着状態へと陥っていた。

霧が晴れ、雨もやんだ関ヶ原に東西両軍10万以上がひしめき合
う中、西軍は堅牢な守備を見せ、やや西軍諸隊が押し気味の戦
闘を続けていた。

ここに至って三成は、狼煙(のろし)を点火して西軍右翼で松尾山に
布陣する小早川隊と東軍の後方に位置する南宮山に布陣する毛利
隊ら西軍別働隊に合戦参加の合図を送った。

東軍は、関ヶ原を中心に東西と南方を西軍に取り囲まれ、逃げ場
のない状況で戦っていた。それだけに南方に位置する小早川隊
が東軍左側面へ攻撃を開始し、東方に位置する毛利隊が東軍の
背後を突けば、東軍は関ヶ原盆地にて一挙に壊滅することが必至
であった。

三成による小早川隊、毛利隊ら西軍温存部隊への出陣要請の合図
に呼応して、北天満山から小西行長隊、南天満山から宇喜多秀家
隊が同様の出陣要請の狼煙(のろし)を小早川・毛利諸隊に向けて
上げた。

南宮山に布陣した毛利隊は、西軍本営からの合図を見て、すぐさ
ま山を降り、東軍の後方を攻撃しようと進軍しようとしたができな
かった。
南宮山のふもとに布陣した吉川広家隊が動かず下山するための
道をふさいだため、毛利隊は下山できなかったのである。
吉川広家は、これから自分が率いる部隊が弁当を食べるから少し待
ってくれという。
実は吉川広家は西軍に属した毛利氏の無罪と領国の安堵を条件に
徳川家康と不戦条約を密かに結んでいた。

毛利隊を率いる毛利秀元は、関ヶ原合戦後も大坂城に篭城して
徹底抗戦を主張したことから、関ヶ原合戦当時も合戦参加をする
つもりでいた。
しかし、毛利家の長老である吉川広家の気骨な態度には従わざる
を得ず、南宮山を強硬に下山することなく、ついに合戦不参加と
なる。

合戦参加に意欲を見せていた安国寺恵瓊と長束正家は、毛利隊
が動かないため、疑心暗鬼に陥り、単独での東軍後方攻めを決意
することができず、ついに戦闘不参加に終る。
長宗我部盛親隊も毛利隊につられて単独での行動を慎み、ついに
戦闘不参加となる。

一方、松尾山に布陣する小早川秀秋隊も南宮山の西軍同様、一
向に動く気配を見せない。
小早川秀秋は、開戦前から東西両軍から強い勧誘を受け、当初は
東軍につく動きを見せていた。しかし、東軍から締め出された形と
なってしまい、成り行きで西軍に参加していた。
また、西軍が提示した秀秋への勧誘条件は破格なもので、豊臣秀
頼が成人するまで、関白職を与えるというものだった。

もともと秀秋は、豊臣家一門であり、幼い頃から数多くいる秀吉の
後継者の一人として、豊臣家の御曹司という待遇を得ていた。
しかし、豊臣秀頼の誕生によって、幸福な日々は急転落し、小早川
家へ養子に出され、栄光の豊臣家から締め出されてしまった。
それだけに関白職に叙任されることは、再び栄光の豊臣家へ帰り
咲くことを意味し、秀秋が最も望んだ事柄であった。

しかし、秀秋は一方で西軍を実質的に統括する石田三成との間に
遺恨を抱えていた。
過去に三成が秀秋の失態を太閤秀吉に告げ、結果、秀秋は減封の
うえ移封、謹慎という苛酷な処分を味わった因縁の経緯がある。

また、石田三成は淀殿と仲がよく、その淀殿と仲が悪い北政所は、
秀秋にとっては実の母親同然の間柄であった。
北政所は徳川家康と仲がよく、その徳川家康は太閤秀吉が没した
後、謹慎処分のままであった秀秋を取り成し、元の石高と領地への
復帰を成してくれた恩人であった。

これら諸々の経緯を持つ秀秋は、東西どちらの陣営につくべきか
未だにはっきりした応えを出し得ないでいた。
この状況に焦った石田三成、大谷吉継、小西行長らは、いずれも
使者を小早川陣営に遣わし、戦闘参加を促した。
それでも秀秋は山の上から関ヶ原盆地で繰り広げられている合戦
の模様を眺め見るだけでいた。