毛利 興元
もうり おきもと
1492-1516
享年25歳。


名称:幸千代丸、治部少輔
居城:安芸吉田郡山城


■安芸の国人領主・毛利弘元の長男とし
  て誕生。
  実弟には、後に智謀を駆使して、中国
  地方に覇をとなえた毛利元就がいる。

■1500年、9歳になった興元は、父・弘元
  より家督を譲られ、毛利氏の居城・郡
  山城主となる。
  父・弘元は、次男の元就を連れて猿掛
  城に隠居した。

  当時の状況は西に大内氏、東に細川
  氏という巨大勢力に毛利氏が挟まれる
  形となっており、毛利氏は大内、細川
  氏のどちらに属すべきかその去就に悩
  む日々を過ごしていた。

■1507年、細川政元に京より追放された
  前将軍・足利義稙は、西の京都と謳わ
  れた山口を経営する大内氏を頼った。

  大内家当主・大内義興は、義稙の要請
  に応え、義稙を奉じて京都に攻め上
  った。
  この上洛軍には興元も従軍しており、
  京都に4年も在京した。

  大内氏が京都でうつつを抜かしている
  間に芸備(げいび)地方では、出雲・石
  見を基盤とする山陰の尼子氏が勢力を
  拡大させ、大内氏と衝突するようになっ
  ていた。

■京より戻った興元は、安芸国内の有力
  国人領主八家と国内秩序の安定を目
  的に一揆契約し、備後国で山内・木梨
  両氏が衝突するとその調停にあたるな
  ど、芸備の国人領主のリーダー格とし
  て悪戦苦闘の日々を送った。

  興元は、国人領主の頭領として紛争調
  停に奮闘する一方で、父・弘元と同じよ
  うに大内氏、尼子氏の顔色をうかがわ
  なければならず、毛利氏の存亡をめぐ
  って、常に緊迫した決断を迫られ続
  けた。

  この巨大なストレスの中、興元は父・弘
  元と同じように酒浸りに陥り、酒害のた
  めに体を壊し、1516年、25歳の若さで
  この世を去った。

  毛利弘元・興元父子の酒害による若死
  を見た元就は生涯酒を飲まない決意を
  固める。

  興元没後、毛利家は興元の嫡男・幸松
  丸が幼いながら家督を継いだ。が、興
  元の酒害が祟ったのか、幸松丸も幼く
  して没した。

  このため、毛利家は遅咲きながら元就
  が家督を継いで行くのである。