吉川 経家
きっかわ つねいえ
1547-1581
享年35歳。


名称:千熊丸、小太郎、式部少輔
居城:石見福光城→因幡鳥取城


■石見国邇摩郡福光城主・吉川経安の
  嫡男として誕生。

■1581年、毛利方から織田方へと寝返った
  山名豊国に不満を抱く山名家臣らは、
  主君・豊国を追放し、新たに毛利方から
  城主につく人材派遣を要請。
  毛利氏から鳥取城主として派遣されて
  きたのが吉川経家であった。

  同年3月18日、鳥取城主となった経家は
  、毛利氏山陰方面の先鋒を務めることと
  なり、織田氏との激突に備えた。

■同年7月12日、中国攻め総大将を務める
  羽柴秀吉は2万の大軍を率いて鳥取城
  に来襲した。

  経家は山名家の将兵とともに3400人余り
  で篭城して織田軍を迎え撃った。
  しかし、鳥取城内には備蓄の兵糧が少な
  かった。これは、秀吉が鳥取城攻めを行う
  前に播磨の商人を利用して、鳥取城周辺
  の米を高値で買取り、食糧不足とさせて
  いたからだった。

  いざ秀吉軍が攻め込んでくると吉川軍は
  城周辺から兵糧を徴収しようとしたがみな
  売り払ってしまい、篭城戦に必要な兵糧
  を集められなかった。

  このため、吉川軍は長期の篭城が望めな
  いまま、篭城してしまっていた。
  飢餓地獄と化した城内は、土塀を打ち崩
  して、土塀に混ぜてあるワラを集めて、
  煮炊きして喰らうという有り様であった。

  同年10月25日、経家は鳥取城内にある
  真教寺で城兵の助命と引き換えに自刃
  して果てた。
  享年35歳。

  経家が壮絶な最後を遂げると、鳥取城兵
  は介抱され、秀吉軍が用意した粥などの
  食事を喰らった。中には急激に喰らった
  ために急死するものも現れたという。
  いかに城内がひどい飢餓状態であったか
  うかがい知ることができる。