本庄 繁長
ほんじょう しげなが
1539-1613
享年75歳。


名称:千代猪丸、弥次郎、従五位下、
    越前守、大和守、雨順斎全長
居城:越後村上城


■本庄繁長は、代々、越後守護・上杉
  家に属した岩船郡小泉庄の地頭・
  本庄大和守房長の長子として誕生。
  繁長誕生の直前に父・房長が実弟・
  小川長資に城を奪われ、無念の最
  期を遂げる。
  城を追われた幼い繁長は、家臣に
  かくまわれて成長した。

■1551年、繁長12歳の時、本庄一族の
  後援を得ると仇敵、小川長資を奇襲。
  長資を耕雲寺で切腹させ本庄の家督
  と所領を回復した。

■1558年、繁長19歳の時、繁長は春日
  山城へ赴き、謙信に臣従の誓いを立
  て、その後、謙信の行軍に従い関東
  経略、川中島の戦いに参軍し、多数
  の軍功を挙げた。
  特に川中島決戦では、先陣を勤め、
  自ら太刀を振るって敵陣に斬り込み
  手柄を挙げる武勇伝を残した。
  この武功を誇った繁長は、謙信を軽
  んずる発言をし、謙信より不興をか
  ったという。

■1563年、繁長は上野佐野城を陥落さ
  せ、その城代となるなど上杉軍の関
  東攻めで多大な軍功を重ねた。

■繁長は、外様国衆の中では中条藤資
  に次ぐ優遇を受けたが、主君・謙信
  の信義を重んじ、秩序を正すためだ
  けに軍を動かし、勢力拡大に消極的
  である振る舞いへの軽蔑
  心は日増しに増加し、ついに1568年
  武田信玄への内応という形で謙信に
  反旗を翻した。
  繁長は、揚北衆を率いて越後から出
  羽庄内まで領地を拡大し、謙信を脅
  かす勢力にまでなっていた。
  謙信も繁長の軍才を軽んずることが
  できず、鎮圧軍を組織。自らも越中攻
  めから急遽帰国し、本庄城にこもる繁
  長を攻め立てた。
  繁長は期待した信玄の援軍もなく、揚
  北衆の多くも謙信に軍門に下ったこと
  から、1569年、伊達・蘆名氏の仲介に
  より謙信に降伏した。
  繁長は謙信に忠誠を誓うべく、嫡男・
  顕長を人質に差出し、自らは剃髪し
  て全長と号した。

■以後は、上杉軍の主力部隊として各地
  を転戦し、いかんなく軍略の才を発揮
  したが、1577年、織田信長の調略に
  応じ、伊達氏と結託して再び謙信に
  反旗を翻した。
  1578年、謙信が没すると上杉家の家
  督争いに介入し、上杉景勝を救援し、
  一族の鮎川盛長を攻め破るなど活躍
  した。

■1582年、繁長は上杉家を継いだ景勝
  に従い家督争乱で荒れた越後統一
  戦に参軍し、新発田従家征討に尽力
  した。

■1588年、景勝は庄内攻めを決行し、
  参軍した繁長は二男・千勝丸とともに
  3000の兵を率い、山形城主・最上
  義光、東禅寺筑前守とその実弟・右
  馬頭らが率いる兵3万と戦う。
  この戦いで10倍以上の敵軍相手に軍
  才の妙味を見せた繁長は、最上軍を
  撃破し、繁長の名は、上杉軍一の猛
  勇の将として全国に名を馳せた。

■百戦錬磨の武名を得た、繁長だったが
  1590年、秀吉から出羽・仙北一揆扇
  動の嫌疑をかけられ、改易処分となる。

■1592年、朝鮮出兵において上杉軍の
  一将兵として参軍した繁長は抜群の
  軍功を見せ、秀吉から罪を許されて
  いる。

■1598年、主君・景勝の会津120万石移
  封にともない繁長は1万1千石を与え
  られ、岩代福島城代となる。

■1600年、家康による会津征討が実施
  されると景勝に従い上杉軍の一軍を
  任され、伊達政宗の軍勢と互角に渡
  り合う勇戦を演じた。
  伊達軍の進撃を阻止するなど東国一
  とうたわれた群雄部隊を抑える歴戦
  の軍才を現した。

■関ケ原の戦い後、合戦のない時代が
  到来したことで活躍の場を失う形で隠
  居生活を送ることになった繁長は、歴
  戦の勇士としては珍しく平穏な老後を
  過ごして、1613年
  12月病没した。享年75歳。