柿崎 景家
かきざき かげいえ
?-1575


名称:弥次郎、和泉守
居城:越後柿崎城→越後猿毛城


■景家は、越後頸城郡の地頭・柿崎氏の
  当主である。
  越後柿崎城と猿毛城を兼ねた越後
  国主であり、謙信の側近・七人衆の
  一人として列した。
  上杉軍内で奉行職を務めた。

■1548年、長尾晴景と謙信が対立すると
  景家は謙信に味方し、謙信の春日山
  城入りに多大な貢献をした。
  謙信が長尾家当主となり、越後統一を
  目指すと景家はこれに従い、越後統一
  戦で活躍した。

■景家が率いる300騎と歩兵1500の精鋭
  部隊は、上杉軍最強部隊として広く諸
  将に恐れ知られていた。
  1561年、謙信が関東の諸将を率いて
  北条攻めを行うと景家の精鋭部隊は、
  関東武士10万余りの中心的存在として
  活躍した。

■川中島決戦でも景家の精鋭部隊はその
  先鋒を勤め、武田軍本陣に斬り込む戦
  功を上げ、信玄の肝を冷やした。

■1565年、景家は謙信の三元老の一人
  に列し、上杉家臣団きっての武人であ
  りながら、外交を担当するというすぐれ
  た事務能力を見せた。

■景家の外交手腕が発揮したのは、北条
  氏康との越相同盟締結の際であり、景
  家は氏康の子を謙信の養子とする交
  渉を成立させ、保証として景家の嫡子・
  晴家を人質として小田原に送って
  いる。
  この景家の機転で上杉家と北条家は
  同盟締結し、越後・関東の間で一時的
  な平和をもたらした。

■1573年、景家は手勢300騎を率いて越
  中に出陣。
  ”越後の熊”として越中諸将から恐れら
  れた。

■1574年、越中で暴れまわった猛将・景
  家は、武勇を誇示したまま急死した。
  一説に織田信長に内応したとして越中
  水島で謙信の命を受けた刺客の手で
  討たれたという。