直江 兼続
なおえ かねつぐ
1560-1619
享年60歳。


名称:樋口与六、重光、
    従五位下、山城守
居城:出羽米沢城


■越後与板城主・樋口惣右
  衛門兼豊の子。若い頃か
  ら智勇にすぐれた兼続は、
  謙信の側近として仕え、謙
  信亡き後、景勝に仕える。

■1581年、兼続21歳の時、越後春
  日山城内で毛利秀広が景勝の
  側近・直江信綱、山崎秀仙の二
  人を殺害するという事件が起きる。
  謙信以来、上杉家の執事として活
  躍してきた直江家が断絶するとこ
  れを惜しんだ景勝は、1582年俊才
  の小姓・樋口与六に直江家を継ぐ
  ことを命じ、与六は直江兼続と名
  乗る。

■兼続はその俊才を存分に発揮し、
  軍政、内政の両面で采配を振る
  い活躍した。

■兼続の人物像は、偉丈夫であり、
  弁舌も巧みで文武両道にすぐれ
  た智勇の将であったという。
  後に従五位下山城守に叙任され
  た兼続は、”直江山城”と呼ばれ、
  広く諸将に一個の英雄として知ら
  れるようになる。

■秀吉の朝鮮出兵に参軍した兼続
  は、朝鮮に渡り、陥落させた敵城
  に入り、必ず書庫を探させ、文献
  を手に入れ、自身の知識拡充に
  努めたという。

■1598年、景勝が出羽会津120万石
  を領すと秀吉の特命で兼続は出
  羽米沢30万石を与えられ、大名に
  列するという厚遇を受けた。

  当時、30万石以上の大名は11名
  を数えるのみであったことからい
  かに兼続が厚遇されるに足る逸
  材であったかがわかる。

■1599年、秀吉没後、景勝、兼続は
  相次いで京から本国会津へ帰国
  すると、京大坂では家康の謀略
  で上杉謀反の噂が流れた。

  家康ら豊臣家重役たちは、その
  真偽を確かめるべく、景勝に京
  大坂へ上洛するように要請を出
  した。が、越後から会津へ移封
  したばかりで国政を布くのに忙し
  い景勝は上洛を拒否。

  景勝は上洛拒否の書状を書き、
  その書状の中で家康の無謀な嫌
  疑を無用に争乱を起そうとする逆
  心有りと非難した。
  この景勝の書状を受け取った家康
  は激怒。「63歳のこの歳まで、これ
  ほど無礼な書状を受け取ったこと
  はない」と怒号し、すぐさま会津討
  伐を豊臣秀頼に提言。
  家康の巧みな口上に乗せられた
  豊臣家臣は止めるもの無く、会津
  征伐の気運が高まった。
  豊臣秀頼、淀殿から家康に会津
  征伐のための莫大な軍資金と大
  量の兵糧米が贈られ、家康を総
  大将とする遠征軍が組織された。

  景勝、兼続は国境の防備を整え、
  征伐軍とあくまで戦う覚悟を見せ、
  東国の最上・伊達軍と緒戦を行う。
  永い動乱が訪れると予測した兼
  続は、三万の大軍を率いて山形城
  に攻め込んだが関ケ原の戦いが1
  日で終結。上杉軍が孤立すること
  を恐れた兼続は、出張るのは危険
  と判断。防衛戦を覚悟し、兵を米
  沢に戻した。

■1601年、兼続は主君・景勝ととも
  に上洛し、家康に降伏。結果、会
  津米沢120万石から米沢30万石
  に減封となる。

  兼続はそのうち、6万石を所有し
  たが、上杉家は一人も家臣のクビ
  をきることなく召し抱えたため、給
  料の配分に苦渋することとなった。
  その為、兼続は、自領のうち、5万
  石を主家・上杉家に与え、1万石
  大名として主家に仕えた。

■徳川家と対立した経緯から上杉家
  の存続が危ういと見た兼続は、家
  康の重臣・本多正信の次男・政重
  を養子に迎えるなどして、主家の
  安泰を図る努力を惜しまなかった。

■1609年頃から兼続は、重光と改名
  し、米沢の内政に力を注いだ。
  それと同時に兼続は、教育活動
  にも力を入れ、農業書の執筆や
  古典の普及など文化発展に貢献
  した。

■1619年、江戸で病没。
  享年60歳。