長尾 政景
ながお まさかげ
1527?-1564
享年38歳?。

名称:六郎、新五郎、越前守
居城:越後上田坂戸城


■長尾越前守房景の子。
  政景は魚沼郡上田荘を拠点とする上田
  長尾氏の当主となる。謙信とはいとこ関
  係にある。

■1548年、謙信が実兄・晴景と家督争いを
  した時、政景は晴景を支援した。
  しかし、謙信の武勇には誰もかなわず、
  晴景はあっさりと敗退。謙信の家督が
  確定すると政景は渋々、謙信に臣従した。

■1551年、政景は 謙信への不平を隠して
  家臣となっていたが、宇佐美定満の策謀
  にはまり、父・房景とともに謙信に謀反を
  起した。
  しかし、謙信に戦でかなうはずも無く、あ
  えなく降伏する。
  その後、政景は謙信の実姉・仙桃院を妻
  にすると上田衆を率いて謙信に終生忠
  義を尽くすようになる。

■1556年、謙信は家臣団内の争いが絶えな
  いことを苦悩し、家督を放棄し隠遁を計る
  と政景はこれをおし止め、説得して謙信
  を復帰させることに成功する。

■信濃の豪族たちが信玄の信濃侵攻により
  領地を追われると越後の謙信の下へ助
  けを求めてきた。
  秩序を重んじる謙信は、侵略行為をする
  信玄を国逆と定め、信濃奪回戦を断行。
  政景を先鋒とする越後勢が信濃に侵攻。
  信玄と対峙した。
  武田軍と決戦に至らず、越後に引き返し
  た謙信は、関東北条氏を討つべく関東へ
  出陣。
  政景は越後国人、信濃の武田軍の抑え
  として春日山城の留守を守った。
  以後、政景は長尾家一門の筆頭を勤め
  つつ、謙信の度重なる遠征の際に越後
  留守を勤める大任を担った。

■1564年、政景は謙信が信濃川中島へ遠
  征し、武田軍と対峙中に魚沼郡湯沢の
  野尻湖で周遊中、誤って水中に落ち溺
  死した。
  享年38歳といわれる。

  一説に政景の謀反を察知した謙信の
  軍師・宇佐美定満が、野尻湖に政景を
  誘い出し、政景と取っ組み合いをして
  そのまま湖に落ち、
  二人とも溺死したという。溺死した政景
  を引き上げた時、体に刀傷があったと
  いう。