山県 昌景
やまがた まさかげ
?-1575


名称:飯富源四郎、三郎兵衛
居城:駿河江尻城


■飯富虎昌の実弟。
  信玄の近習から使番を経て、
  侍大将に昇進している。

■忠義に厚く、信玄の側近として
  活躍するが、1565年兄・虎昌
  が武田義信の謀反事件に連座
  したため、飯富姓を捨て、山県
  三郎兵衛昌景と名乗る。

  山県姓に改名したのは、武田
  信虎の重臣・山県河内守虎清
  の名跡を継ぐためであったと
  いう。

■兄・虎昌が創立した武田の赤備
  えの組織を継承し、赤備え山県
  隊はその後、大いに活躍してゆ
  くことになる。

  武田軍としては遅咲きの部隊
  ではあったが、その後の精強
  な活躍ぶりで武田軍団の最強
  部隊として諸大名に恐れら
  れた。

■1573年の三方ヶ原の戦いでは、
  特に目覚しい活躍を見せ、徳
  川本隊に切り込むと、瞬く間に
  本陣を切り崩し、家康を命から
  がら逃避させた。
  武田騎馬隊の猛勇ぶりを家康
  は「さても恐ろしきは山県」と述
  懐したほど。
  この経験から家康は武田家滅
  亡後、山県隊の兵士を集め井
  伊直政につけ、井伊の赤備え
  としてそっくり昌景の軍組織を
  真似したほどである。

■1575年、無敵を誇った山県隊
  も、新主君・勝頼の無謀な戦
  で崩壊することとなる。
  遠江長篠まで遠征してきた武
  田軍を織田・徳川連合の大軍
  が待ち構えるという事態となり
  、織田陣営の異様な構えに驚
  いた昌景は、正面攻撃を回避
  することを提言する。

  しかし、主君・勝頼はこの昌景
  の提言を臆病者呼ばわりし、
  それに憤怒した昌景は、勝頼
  に別盃し、諸将に総員討死を
  覚悟することを命じて織田陣
  営に突進。
  馬防柵に行く手を阻まれつつ
  も、ひるまず突撃を敢行。
  武田の大将と見られ、織田軍
  鉄砲隊の集中砲火を浴びた
  昌景は、壮絶な爆死をして果
  てた。