高坂 昌信
こうさか まさのぶ
1527-1578
享年52歳。


名称:源五郎、源助、春日虎綱、
    春日彈正忠正忠、昌宣
居城:信濃海津城


■石和の大百姓で米大尽と呼ば
  れ、武田家の兵糧集めなどに
  尽力した春日大隈の子といわ
  れる。

■昌信は類まれな美少年であり、
  武田家の近習になると信玄か
  ら寵愛され、1543年16歳の時、
  奥近習の一人に取り立てられた。
  後に使い番12人の一人に抜擢
  され合戦に従軍するようになる。

■1552年、昌信が26歳の時、安曇
  郡小岩岳城攻撃に参軍し、軍功
  を立て、侍大将に出世する。
  これを機に春日源助を、春日彈
  正忠正忠と改名する。

■昌信の著作ともいわれている「甲
  陽軍艦」には「戦国三彈正」とし
  て、「保科彈正の槍彈正、真田
  彈正の攻め彈正、高坂彈正の
  逃げ彈正」と記載されており、
  昌信は戦況を機敏に察知し、
  適切な軍指揮を行えると称え
  られている。
  武田家臣団屈指の智将として、
  軍神・上杉謙信の抑えとして活
  躍する。

■1561年、第四回川中島の戦い
  に参軍した昌信は、きつつき戦
  法で別働隊の先鋒を務めた。
  上杉軍の武田本隊への攻撃の
  中、昌信の機転で反撃の機会
  を得た武田軍は緒戦の劣勢を
  挽回し、勝利を収めた。
  この合戦前後に昌信は、北信
  濃の豪族・高坂(香坂)家の名
  跡を継いでいる。

■1572年、信玄の西上行軍が実
  施されると昌信はこれに従軍。
  三方ヶ原の戦いで徳川軍に圧
  勝すると家康の引きこもる浜松
  城を一気に落そうとする諸将を
  戒め、京へ武田の旗を立てる
  のが先と主張した。

■1573年、信玄が没すると昌信
  は、剃髪し、無謀な戦を控える
  ように諌める主張を繰り返し、
  勝頼などから疎んじられるよう
  になる。

■主君・勝頼の長篠侵攻に際して、
  越後の上杉謙信を牽制する為、
  昌信は1万の大軍を率いて信
  濃に駐屯する。

■1575年、長篠合戦で武田軍の
  大敗の報をいち早く知った昌
  信は、8000の兵を率いて敗走
  の将・勝頼を出迎え、敗軍のま
  ま甲斐に入国しては国政にか
  かわるとして勝利の凱旋を勝
  頼に演じさせるなど経略を練
  った。

■武田主力の甚大な被害を知っ
  た上杉軍は信濃侵攻を開始
  するが、昌信が信濃に進出。
  上杉軍と対峙し一歩も上杉軍
  に信濃侵攻を許さなかった。
■武田の衰退著しいことを懸念し
  た昌信は、関東へますます勢
  力拡大に成功する北条氏との
  対立を避けることを勝頼に提案。
  北条氏政の妹を勝頼が娶ると
  いう政略結婚を実施させ、見事
  成功させた。

■晩年の昌信は上杉軍の信濃侵
  攻を防ぐ戦略に追われる一方
  で、勝頼に政策の進言をする
  など多忙の日々を送る。
  信玄存命中の無敵の栄光を記
  録にとどめるべく「甲陽軍艦」
  を著すなど貴重な資料を後世
  に残した。

■1578年、昌信は、甲斐武田家の
  衰退を憂いながら病没した。
  享年52歳。