原 虎胤
はら とらたね
1497-1564
享年68歳。


名称:美濃守、
    鬼美濃(おにみの)


■原能登守友胤の子。
  原家は下総の名族千葉氏の
  一族で、下総臼井小弓城を居
  城とした後裔である。

■1513年、房総の武田・里見連
  合軍の攻撃により落城し、虎
  胤の祖父・隆胤は戦死。父・
  友胤とともに北条氏綱を頼っ
  て小田原へ逃亡した。
  北条氏綱は友胤の武勇を惜し
  んで北条氏へ仕官するよう求
  めたが友胤はこれを断り、甲
  斐武田信虎に仕え、足軽大将
  となった。

■虎胤も17歳にして、武田家臣団
  の一員として合戦で活躍する。
  勇猛振りは父以上で、飯富虎
  昌の部隊に属して腕を振るった。

■1553年、信玄の下で重臣とし
  て活躍していた虎胤であったが、
  浄土宗と日蓮宗が宗論した時、
  日蓮宗を見舞ったため、宗論
  の介入せずという法度を背い
  てしまった。
  そのため、信玄との間に確執
  が生まれ、虎胤の同僚・馬場
  信春、内藤昌豊、山県昌景ら
  が配慮して甲斐を退転させた。
  虎胤は北条氏康を頼ると、氏
  康は伝え聞く猛将を厚遇した。
  虎胤もこの厚遇の恩を返すべ
  く、各合戦に参軍し、軍功を
  立て、9の感状を賜っている。

■北条氏の駿河今川氏侵攻に
  虎胤も参軍したが、この時、
  今川氏は同盟国の甲斐武田
  氏に援軍を要請。
  武田軍との戦いに虎胤は、『
  甲州は縁につながるゆえ』と
  称して、武田勢を峰打ちであ
  しらい深傷を負わせなかった。
  後に虎胤の猛勇を惜しんだ
  信玄は虎胤にわびを入れた
  ことで、虎胤は晴れて武田家
  へ帰参した。

■晩年は駿河久能山で駿河方
  面の防備にあたっていたが、
  1564年病没した。享年68歳。
  武田家臣団一の猛将・原虎
  胤の死を知った信玄は、「世
  人、虎胤を畏敬して”鬼美濃”
  と恐れし、わが忠臣なり。
  当家、虎胤のほか美濃を称
  する者とてなし」とその死を
  悼んだ。
  後に信玄は虎胤の武勇を惜
  しみ、馬場信春に「”鬼美濃”
  にあやかれ」といって、美濃
  守の称号を許している。