穴山 信君
あなやま のぶきみ
1541-1582
享年42歳。


名称:勝千代、彦六郎、左衛門大夫、
    玄蕃頭、陸奥守、梅雪斎不白
    、穴山梅雪
居城:甲斐下山城→駿河江尻城


■甲斐河内下山の国人領主・穴山
  伊豆守信友の子。
  母は、信玄の異母姉・南松院。
  妻は、信玄の娘・見性院という
  武田家重縁の武将である。
  遠祖も武田の出であることから
  武田親族衆筆頭扱いという厚遇
  を受け、本姓は武田を名乗った。

■本拠地下山では金山が豊富で、
  経済的に他の豪族よりも裕福で
  あり、京文化を積極的に取り入れ
  て、文化人として教養が高かった
  。特に筆法に長けていたという。

■信玄の編成した武田騎馬隊に組み
  込まれ、武田親族衆200騎の侍
  大将として活躍。
  川中島、三方ヶ原、長篠と歴戦し
  、信玄、勝頼の本陣守衛隊長を
  務めた。

■長篠合戦では、武田の壮絶な突撃
  戦死の前に総大将・武田勝頼も
  自刃して果てる覚悟を決めたが
  信君は逃走を進言。
  嫌がる勝頼に刀をつきつけ無理矢
  理早馬に乗せ、勝頼脱走を助けた
  。信君は親族筆頭並としての役割
  を見事果たしたのである。

■駿河方面司令官を務めていた山県
  昌景が長篠合戦で討死したため、
  信君はその後任に就き、東海道
  の要衝・江尻城を本拠とし、感国
  楼を築き、守備を固めた。

■信君は城を築かなかった信玄の政
  策を改め、城を築き国防に務める
  ことを主君・勝頼に進言。
  他の家臣の反対を押し切って、
  甲府西北七里ヶ岩に新府城を築
  かせた。

■武田家滅亡の直前、徳川家康の
  調略を受け、武田の家名と血統を
  残すことを条件に戦線離脱。
  家康に属した。武田親族唯一の
  生存者となった。

■武田家滅亡後、織田信長より改め
  て河内本領と江尻城を安堵され、
  信長に謁するため上京する。
  しかし、信君が和泉堺にいる最中
  本能寺の変が起こり、急遽本国に
  帰国しようとするが山城宇治田原
  で土民により惨殺された。
  享年42歳。

■信君の跡目を継いだ勝千代も、16
  歳で病没し、清和源氏の流れを
  くむ武家の名門中の名門・武田
  家の家名はほど無く断絶した。