武田 信廉
たけだ のぶかど
?-1582


名称:孫六、信綱、信連、刑部少輔、
    逍遥軒
居城:信濃高遠城→甲斐大島城


■武田信虎の三男。
  兄・信玄、信繁と同母弟で、母は
  大井氏。

■若年から絵画に興じ、武人として
  の才覚にはかけていたといわ
  れる。

■文人としての才覚にすぐれても、
  合戦にあっては騎馬80騎と勝
  沼衆を率いる侍大将として親族
  衆に列した。

  信玄本陣の近侍を務めた為、
  軍功にはあまり縁が無かった。

■兄・信繁が川中島の激戦で果て
  ると代わって親族衆筆頭に就き
  、信玄補佐を務める。

  兄・信玄と酷似した顔立ちから
  信玄の影武者も務めていた。

■親族筆頭を務めつつも、文人と
  しての精進にも務め、絵画を長
  谷川等伯に学び、戦国屈指の
  武人画家となる。
  父・信虎、母大井夫人の肖像画
  は現在、国の重要文化財になる
  など画力も相当のものだった
  ことを窺い知ることができる。

  信廉は絵画の世界だけに留ま
  らず、歌道を冷泉為知、法泉寺
  湖月、漢詩を快川紹喜、惟高、
  佐久彦、彫刻を康清に学ぶとい
  う多彩な方面に芸才を発揮した。

■戦国武将屈指の文人として才覚
  を現した信廉も1582年、武田家
  滅亡に接し、居城大島城を撤退。
  農家に潜むが織田軍に捕らえら
  れ、府中立石で斬首される。

  武力だけの武田家にあって、芸
  術の志向を表した信廉は、武田
  家の栄華を文武両道にした点で
  大きな功労者と言える。