武田 信繁
たけだ のぶしげ
1525-1561
享年37歳。


名称:左馬助、次郎、典厩信繁(てんきゅう
    のぶしげ)、古典厩(後世)


■武田信虎の次男。信玄の同母弟で幼名
  ・次郎。
  元服して左馬助に叙任。
  左馬助の唐名の典厩から典厩信繁と
  もいわれた。
  信繁の子・信豊も典厩を称したので後
  世には、信繁は古典厩(こてんきゅう)と
  呼ばれた。

■兄・信玄に劣らず聡明で文武両道を兼
  ね備えたすぐれた武将だった。
  父・信虎からそらんじられた信玄とは
  違い、寵愛を受け、次期武田家当主を
  も期待された。

■しかし、信玄と甲斐豪族のクーデターに
  より、信虎は失脚。甲斐追放処分と
  なる。
  この時、信繁は信玄の苦衷を察し、こ
  れに従う。

■信繁は信玄のよき補佐役として武田
  家統制に貢献。君臣の道を厳しく守る
  信繁に武田家臣の人望はすこぶる高
  かった。
  江戸中期の学者・室鳩巣は「典厩公は
  天文、永禄の間の賢と称すべき武将」
  と信繁を絶賛している。

■1561年、第四回川中島の戦いでは、か
  ねてから武田・上杉両軍の主力同士が
  対峙しながら合戦のないまま終ってい
  たことから両軍とも兵の士気が高いば
  かりでなく、ぴりぴりした不満の渦の中
  にあった。

  そのため、一触即発の激化する軍士気
  の元で対峙した両軍には、戦国最大と
  もいえる大激戦でしか決着はなかった
  のである。
  山本勘助の策略・きつつきの戦法を取
  り入れた武田軍は、強敵・上杉謙信の
  軍の前で軍を二軍に分けるという思い
  切った行動に出た。
  しかも、信玄率いる本隊は5千ほどの
  兵員しかなく、別働隊に1万以上もつ
  けるという軍略としてはきわどい作戦を
  取った。
  案の定、出陣前の武田軍陣営から通
  常よりも多くの炊飯で出た煙を見て、今
  夜行動を起すと察知した謙信に裏をか
  かれ、妻女山から一気に武田本隊を突
  いてきた。

  二倍近くの兵力差が出た上杉軍の前
  に浮き足立つ武田兵を必死で抑え、士
  気を鼓舞した信繁は、信玄本隊が危機
  に陥ると自ら奮戦。
  激戦の中、信繁は討死した。
  享年37歳。

  この信繁の武勇にあやかろうと真田
  昌幸は次男の名を信繁と名づけている
  (のちの真田幸村)。

■信繁は生前、嫡男・信豊に九十九ヵ条
  の教訓を残している。これは「信玄家
  法」として武田家の律法となり、江戸時
  代に入って、武士教育に大きな影響を
  与えた。