真田 幸隆
さなだ ゆきたか
1513-1574
享年62歳。


名称:小太郎、彈正忠、一徳斎
居城:信濃松尾城→信濃巌城→
    信濃砥石城


■海野入道棟綱の次男として誕生。
  一説に棟綱の外孫ともいわれる。
  海野家は信濃の名族・滋野三家
  の筆頭の家柄。

■1540年、村上・武田・諏訪の連合
  軍の攻撃を受け、山内上杉家の
  老臣で上野箕輪城主・長野業正
  を頼って逃れる。

■後に流浪し、1546年頃に甲斐
  武田家に仕えた。
  武田家より海野家の旧領信濃小
  県郡真田郷を与えられ、六連銭
  真田党の祖となる。
  一説に武田の軍師・山本勘助が
  武田家仕官を仲介したという。

■武田家臣団の中では信濃先方衆
  頭目となり、信玄の東信濃、中信
  濃侵攻では権謀術数を駆使して、
  陣頭指揮を取り、数々の軍功を立
  てた。知略謀略にかけては、信玄
  よりもすぐれていたといわれる武
  田家屈指の謀将であった。
  そのあまりの卑劣極まりない策略
  に正々堂々と戦う武田家臣団の
  勇将らに毛嫌いされるほどだった
  という。

■信玄でさえ落せなかった難攻不落
  の砥石城を謀略によって奪取する
  軍功を立て、信濃の雄・村上義清
  はこの属城・砥石城を落された失
  ったことで信濃の地から没落して
  いくこととなった。
  信濃制覇の上で軍略上重要な拠
  点砥石城を落した幸隆は、その城
  とその周辺領土を与えられた。

■1561年、川中島合戦後、幸隆は、
  長男の信綱に家督を譲り隠居し、
  一徳斎と号す。

■1574年5月、幸隆は信玄の後を追
  うようにして病死した。
  享年62歳。

■幸隆の子・信綱、昌輝、昌幸、信伊
  の四兄弟はいずれも名将として
  活躍している。