結城 秀康
(ゆうき ひでやす)
1574-1607
享年34才

名称:於義伊、於義丸、
    羽柴三河守秀康、
    結城少将、中納言
居城:下総結城城→越前北ノ庄城

■1574年 
  徳川家康の次男として誕生。
  母は側室お万の方。
  於万の方が懐妊したことを知った家
  康の正室・築山殿は、嫉妬によりな
  ぶり殺そうとするが、家臣の本多重
  次に救われ、三河国産見村で秀康
  を出産。
  その報を聞いた家康であったが、実
  に冷淡であったとある。

■1576年 2才
  兄・信康の肝煎りで岡崎城で初め
  て家康と対面する。

■1584年 10才
  小牧・長久手合戦の講和条件とし
  て人質に出され、羽柴秀吉の養子
  となる。
  秀吉の一字を受けて秀康と改名。
  秀吉は秀康を優遇して、従五位下
  侍従に叙任し、河内国に2万石の所
  領を与える。

■1587年 13才
  秀康は、秀吉の九州平定戦に従軍
  し、豊前岩戸城攻めに武功を立て
  る。
  が、秀康は自らの武略のつたなさを
  嘆き、その謙虚さ振りを示すと諸将
  の感嘆を集めた。

■1590年 16才
  関東の名家・結城氏の頭領、結城
  晴朝の願いで秀吉からその養子に
  出され、下総結城城10万石を相続
  する。これにより、秀康は徳川家配
  下の大名となる。

■1600年 26才
  関ケ原合戦の際には、秀康の本心
  を計りあぐねた家康によって、主戦
  場から遠ざけられ、上杉景勝に備
  えるという名目で下野宇都宮を
  守備。

  戦後、その軍功により、越前一国と
  信濃、若狭の一部を拝領し、67万
  石の大名となる。秀康は居城を越
  前北ノ庄城に定めた。

■1605年 31才
  秀康は、正三位中納言に叙され
  た。

■1607年 33才
  秀康は、大坂方から反幕府の誘い
  を受けるがこれを退け、徳川政権を
  支えた。
  越前にて、没す。
  享年34才。