鳥居 元忠
とりい もとただ
1539-1600
享年62歳。


名称:鶴之助、彦右衛門尉、嘉岳宗慶、
    龍見院


■三河岡崎惣奉行・鳥居伊賀守忠吉の
  次男として誕生。

■元忠は幼い家康が今川氏の人質とし
  て駿河に行くとこれに従い仕えた。

■家康の三河統一戦、遠江経略戦に元
  忠は旗本として活躍。姉川の戦いに
  て武勲を立てた。

■1575年、元忠は長篠の戦いで諏訪原
  城攻撃の先鋒を勤める。この時、左
  足に鉄砲傷を負い、左足が不自由と
  なる。

■1582年、本能寺の変後、元忠は甲斐
  の古府中にて北条氏勝の軍を破り、
  その軍功により、甲州郡内の領地を
  与えられている。

■主君・家康が秀吉に臣従するため、
  上洛をした際、秀吉は家康とその重
  臣に官位を叙任したが、元忠は「二
  主に忠を尽くすべき道をわきまえず」
  と述べて官位叙任を固辞した。

■1590年、小田原攻めでは元忠は、本
  多忠勝とともに上総、武蔵両国を制
  圧し、武蔵岩槻城攻めで軍功を立
  てた。
  この軍功により、秀吉から感状を受
  け、下総国4万石を領し、矢作城主
  となった。

■1600年、家康は会津討伐に向かう
  に当たって、石田三成が家康の留
  守をついて、畿内で挙兵すると予測
  し、三成の行軍を足止めする策とし
  て伏見城の守りに元忠を当てた。
  元忠も伏見城を守るにあたって、家
  康とはもう二度会えぬことを悟り、
  別れの言葉を家康に述べ、家康
  とともに涙を流したという。

  1800の手勢で伏見城を守備した元
  忠は、石田三成の挙兵により、宇
  喜多秀家、小早川秀秋ら9万の大
  軍に包囲された。
  激しい攻城戦を展開した元忠は、
  自らも老体をおして奮戦し、落城
  間際に切腹して果てた。
  享年62歳。

  元忠の首は西軍によって、京橋口
  にさらし首とされたが、佐野四郎
  右衛門という者が奪い返し、智恩
  院の中の長源院に葬った。