石川 数正
いしかわ かずまさ
?-1593


名称:助四郎、内記、伯耆守、出雲守
居城:三河岡崎城→信濃松本城


■岡崎城主・石川康正の子。
  石川氏は三河国碧海郡小川郷を拠点と
  する有力土豪で松平家の有力家臣として
  活躍した。

■数正は家康が幼少の頃から近習として仕
  え、家康が今川家へ人質に出されるとこ
  れに随行した。

■徳川家臣団屈指の文官として国政や財政
  面で活躍する一方、合戦にも参軍し武功
  を立てる一面もあった。
  押しも押されもしない筆頭家老としての地
  位にあり、徳川家臣団の中核を担った。

■1562年1月、数正は落ち目の今川氏と手を
  切り、日の出の勢いにある織田家と同盟を
  結ぶことを主君・家康に提言。数正は自ら
  外務に尽力し、清洲城で織田信長と家康
  が同盟の席を設ける手はずを整え、織田
  ・徳川の同盟を成功させている。

■数正のこの活躍を受けて、叔父・石川家成
  は数正に西三河旗頭を譲り隠居し、数正
  は石川家総裁となる。

■その後、各地での転戦に参軍した数正は、
  家康の嫡子・信康の老臣となり、岡崎城
  に入る。
  1579年、信康が自刃すると岡崎城代に
  就き、三河守備の総責任者となる。

■1584年、小牧・長久手の戦いの際、秀吉
  の日の出の勢いは止められないと判断。
  主君・家康に秀吉と一刻も早く和議を結
  ぶことが肝要と進言し、家康から疎んじ
  られる。

■数正は、小牧・長久手合戦後、家康の特
  使として上京。
  秀吉と謁見した。和睦の条件として家康
  の次男・秀康を秀吉の養子とする名目で
  人質に出す交渉を進めた。
  秀康上京の際には数正の長男・康長を
  随行させている。

■1585年、秀吉の得意な懐柔作戦で厚遇
  を受けた数正に対して、数正が秀吉に
  内応するとの風評が飛び交った。
  家康を完全に見限って出奔したのか、
  秀吉に内応する形をとって、実は家康
  に秀吉の動きを流していたのか実情は
  不明ながら、数正は家康のもとを去り、
  秀吉の家臣となる事件が起きた。

■1586年、秀吉の家臣となった数正は出
  雲守を称し、和泉国に8万石を領す厚
  遇を受けた。

■1590年7月には、信濃松本城主となり、
  10万石を領す出世を果たしたが、豊臣
  家臣団の中でその力量を発揮する場
  はなく、実際は豊臣家中でもその忠義
  の程を疑われ、重用されなかったのが
  実情であった。

■かつては徳川家臣団筆頭家老として存
  分に器量を発揮した数正も寝返りとい
  う不忠義を犯したために活躍の場を失
  い、急速に老衰していった。
  数正の晩年は不遇であり、失意の余り
  城に引きこもるようになり、国政の最前
  線への復帰を夢見ながら没した。