宇喜多 秀家
うきた ひでいえ
1572-1655
享年84歳。


名称:八郎、家氏、成元、侍従、左中将、参議、中納言
居城:備前岡山城


■宇喜多直家の嫡子。
  幼くして、父・直家を失うと、秀家は叔父の忠家らに補佐されて、宇喜多家当主となる。

■羽柴秀吉と盟約を結んだ宇喜多家は、秀吉軍団の一翼を担う役目を持った。
  幼い秀家は、秀吉のお気に入りとなり、実子同然の寵愛を受けて育つ。

■朝鮮の役後、秀家は五大老に抜擢されるという破格の出世を果たしている。

  秀家の正室として迎えられたのは、秀吉の養女となっていた豪姫である。
  豪姫は前田利家の娘で、永年、親友関係を持っていた秀吉の養女となっていた。
  秀吉の養女を妻としたことから、秀家は豊臣家一門となり、秀吉から更なる厚遇を受けた。

■豊臣政権で高位を極めた秀家であったが、秀吉が全国に実施した太閤検地の際に家中騒動を起こしてしまう。

  太閤検地を忠実に実施しようとする宇喜多家臣に対して、あくまでも在地の国人として、領有の権利を主張する宇喜多家臣たちが反発し合い、あわや合戦となるほどまで悪化した。

  この宇喜多家の危機にあって、仲裁を買って出たのが徳川家康であった。
  この仲裁によって、豪勇で知られる多くの宇喜多家の家臣たちが宇喜多家を立ち去っていった。

  宇喜多家から離反した者たちの大半が徳川家康に仕えている。

■1600年、関ヶ原の戦いで西軍の主力となった、宇喜多軍は、関ヶ原の戦場にて、東軍の福島正則の軍勢と激しく戦っている。

  惜しくも西軍は東軍に敗北し、秀家は数年に渡って、逃避生活を行った。
  その後、前田利長、島津家久らの助命嘆願によって、からくも命だけは助かり、八丈島へと流されることとなった。

  1655年、秀家は孤島・八丈島にて没した。
  享年84歳。

  関ヶ原合戦に参軍した名のある人物の中で、最後まで生きていたのが秀家であった。