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龍造寺 家兼
りゅうぞうじ いえかね
1454-1546
享年93歳
名称:孫九郎、左衛門佐、剛忠
居城:肥前佐嘉城
■肥前龍造寺家十四代目当主・龍造寺康
家の五男として誕生。
龍造寺宗家である中村龍造寺家とは
別家の庶流にあたる水ヶ江龍造寺家を
継いだ。
龍造寺宗家を継いだ家兼の兄・龍造寺
家和が1528年に没すると家和の子・胤
和、胤久が家督を継ぎ、家兼はその後
見役を務めた。
■1530年、少弐資元の依頼により資元の
嫡男・松法師(のちの少弐冬尚)を補佐
して、大内義隆の派兵した杉興運と戦
った。
家兼は大内軍を打ち破り、軍功一番を
挙げて佐賀郡河副荘千町を得た。
■1534年、大内義隆が事態の収拾を図り
、大内家から少弐氏との和睦の仲介を
勤めてくれるよう家兼に要請がくると家
兼は快く引き受け、見事、大内氏と少
弐氏との和睦を成立させ、九州に久々
の安寧の時をもたらした。
■1536年、九州の地を諦めきれない大内
義隆は、和平条約を破棄して名将・陶
興房を総大将とする大内軍を再び九州
の地に上陸させた。
名将として名高い陶興房の猛攻を凌げ
ず、少弐資元は自刃して果てた。
このため、少弐家の家臣たちは、龍造
寺家兼が大内氏に内通したと非難
した。
■龍造寺家を逆恨みする少弐家は、
1544年、少弐冬尚の重臣・馬場頼周の
策謀で家兼の軍を各所に出陣させ、敗
退させた。
さらに頼周は家兼に和議の条件を示し
、龍造寺家の嫡子である家純、家門ら
と周家、純家ら家兼の孫らを一挙に殺
害した。
老齢な家兼は命だけは助かり、柳川へ
追放処分となった。しかし、家兼を助命
したことが少弐家とその家臣たちの滅
亡の引き金となった。
追放された家兼は、翌年の1545年、
91歳という高齢にもかかわらず、矍鑠
たる老人を自で現すかのように少弐家
打倒の軍を挙兵。
一族の恨みを晴らすべく、馬場頼周を
謀殺した。
仇敵を討ち滅ぼし、見事、龍造寺家を
復興させた家兼は、1546年隆信、家就
らに龍造寺家を託して没した。
享年93歳。
九十歳をすぎた老僕が、陣頭指揮を取
って、少弐軍を圧倒する勢いを見せた
ことは、家兼がいかに非凡な人物であ
ったかをうかがい知ることができる。
その後、龍造寺家就を筆頭とする打倒
少弐氏の勢いは留まる事無く続き、戦
国時代屈指の仇討ち劇を成して、九州
屈指の名族・少弐氏を叩き潰したので
ある。
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