長宗我部 国親
ちょうそかべ くにちか
1504-1560
享年57歳。


名称:千熊丸、信濃守
居城:土佐岡豊城(おこう)


■長宗我部兼序の嫡子として誕生。
  長宗我部元親、吉良親貞、
  香宗我部親泰の実父。

■1508年、父・兼序が本山、山田、吉良
  氏ら国人領主から奇襲を受け、自害
  した時、まだ5歳だった国親は父・兼
  序の命により、岡豊城から逃れ、幡
  多の一条房家に庇護された。

  その後、養父・一条房家の調停に
  より、諸豪族に奪われた旧長宗我部
  家領土の江村郷、廿枝郷などの地を
  返還され、1518年、国親15歳にして
  ようやく岡豊城に復帰を果たしたので
  あった。

■その後、若き国親は、江村郷吉田城
  主・吉田周孝の後見を受け、次第に
  旧家臣たちも帰属し、長宗我部家の
  再興を図った。

■国親の養父同然であった一条房家は、
  国親の娘と本山茂宗の嫡子・茂辰とを
  政略結婚させ、旧怨の融和を図ろうと
  した。

  しかし、国親は土佐一国の制覇という
  野望を燃やし、積極的な軍略を展開。
  1547年、一条房基の支城・長岡郡
  大津城を攻略したのをはじめとして、
  下田城主・下田駿河守、介良城主・
  横山左京亮ら長岡郡南部の国人領主
  を次々に制圧し、”土佐の熊”として
  諸侯に恐れられた。

■1549年には、香美郡山田郷、楠目城
  主・山田基通を討ち滅ぼし、その所領
  を奪取すると、余勢をかって、香美郡
  の山間部をも支配下におさめ、領土
  拡大に成功している。

  国親の勢いは留まるところを知らず、
  1553年には、大忍庄槙山の専当氏、
  韮山郷の窪宗安の協力を得て、大忍
  庄に進出。

  1556年、国親の破竹の勢いを恐れた
  香宗我部親秀は、弟で養子の香宗我
  部家当主となっていた秀通を暗殺し、
  翌年の1557年に国親の三男・親泰を
  香宗我部家当主に迎え入れた。
  親秀は香宗我部家を長宗我部家
  一門に入れることで家名の安泰を
  実現させた。

  こうして国親はついに長岡、香美両郡
  の南部を完全に支配下に収め、土佐
  最大勢力を誇る本山氏と拮抗する
  勢力を保持したのである。

■土佐郡倉城を根城とする本山氏と
  しばしば小競り合いをした国親であっ
  たが、ついに決起し、国親の兵糧船が
  本山氏の支城潮江の兵に奪われたこ
  とを理由に1560年、本山氏の長浜城を
  攻め落した。

  さらにその救援に駆けつけた本山茂辰
  を長浜の戸の本にて打ち破った。

  この本山氏との戦いに勝利した国親は
  休む暇もなく、本山氏の浦戸城を包囲
  し一挙に本山氏領土を席巻するかに
  見えた。

  しかし、突如として国親は軍兵を撤退
  させ、同年3月に急死してしまう。
  享年57歳。

  軍略の才は、土佐一の猛者として恐れ
  られた国親であったが、念願の土佐一
  国制覇を実現することなくこの世を去っ
  てしまった。

  しかし、国親のすぐれた軍略の才は、
  子の元親がしっかりと受け継ぎ、土佐
  一国の制覇どころか四国全土を制覇す
  るという偉業をを成し遂げるのであ
  った。