長宗我部 盛親
ちょうそかべ もりちか
1575-1615
享年41歳。


名称:千熊丸、右衛門太郎、宮内少輔、
    土佐守
居城:土佐浦戸城


■四国の英雄・長宗我部元親の四男とし
  て誕生。
  四国一の英才と称えられた兄・信親の
  戦死後、父・元親の偏愛を得て、長宗
  我部家嫡子となる。

■盛親の兄である二男・親和、三男・親忠
  を父・元親は幽閉してしまう。
  盛親に長宗我部家の家督を継がせる
  ためにとった異常行動である。

  そのような中で盛親は長宗我部家の家
  督を継いだ。
  この不穏な因縁が複雑に絡んだ中で
  家督を相続したことで、盛親には少な
  からず悪影響を与えてしまうことと
  成る。

■父・元親はかつては四国の覇者となっ
  た名君であった。
  その人物評はそれまで四国の地から
  は出たことのないはじめての英雄とし
  て内外の諸将から礼讃を得ていた。

  しかし、四国の鳳雛とまで称され、元親
  と家臣団から一身に期待を受けていた
  英才・信親が九州の地で戦死してから
  は、一変。
  元親の豹変振りは、英雄の末路にはよ
  くある狂乱振りであった。
  この豹変した父の姿を見て育った盛親
  がまともな武将となるはずもなかった。

  父・元親は千里眼とまで賞された、戦
  国屈指の眼力を持っていたが、子の盛
  親にはその才能は受け継がれなかっ
  たようである。

  関ヶ原合戦の動乱において盛親は失
  態を重ね、土佐長宗我部家を取り潰し
  てしまう。

■関ヶ原合戦の動乱で、盛親は家臣の反
  対を押し切り、父・元親が秀吉と大の
  仲良しであったことを理由に大坂方と
  される西軍に属した。
  長宗我部家は直接合戦には参戦して
  いなかったため、徳川家康に陳謝する
  ことで土佐一国の保有安堵を得ること
  ができる状態にあった。

  当初、徳川方も四国の複雑な土豪関
  係を考慮して長宗我部家に統治させる
  が妥当と考えていた。
  しかし、事態は盛親の無謀な行動で一
  変する。
  長宗我部家は、徳川家の重臣・井伊
  直政を通じて、徳川家康に謝罪する方
  針で国土安堵の確約を得ようとして
  いた。

  その慎重な外交戦術の最中に、盛親
  は、土佐で幽閉中の兄・親忠を謀殺し
  てしまう無謀な行動を取った。

  兄・親忠は東軍に属していた藤堂高虎
  と親交があった。
  高虎は家康の信任を得て、外様大名な
  がら、政調に携わっていた。
  そのため、親忠は、高虎に働きかけて
  、自分が長宗我部家の当主になるよう
  家康に進言してほしいと頼んでいると
  いううわさが流れた。

  盛親は当初それを信じなかったが、も
  しものことがあってはまずいと重臣の
  久武親直に説かれて、親忠を謀殺して
  しまったのである。

  勝手な家中騒動を起こしたことで家康
  の怒りをかった長宗我部家は、思慮が
  ことごとく浅い主君・盛親のために改易
  という処分の憂き目にあう。

  戦国屈指の深謀を誇った元親の実子
  でありながら、元親から少しもその英
  才を受け継ぐことのなかったのである。

■流浪に流浪した盛親は、京都で寺子屋
  を開き、町人の子どもたちに幾ばくか
  の教育を施しながら、細々とした生活
  を送った。
  長い泰平を経て、大坂の役が勃発する
  と盛親はほこりにかぶった甲冑を引っ
  張り出してきて、大坂城に入った。

  大坂方で一番、名の通った武将として
  刹那の栄華を迎えた盛親は、大坂夏の
  陣で積年の恨みを晴らすべく、藤堂軍
  と激突。

  長宗我部家改易を支持した藤堂高虎
  の軍を撃破する軍功を立てたが、徳川
  軍精鋭部隊の井伊軍に大敗を喫して
  大坂城へ逃げ戻っている。

  大坂城陥落の時、盛親は敵軍のいな
  い天満を守備するなど最後まで間の抜
  けたところを披露しつつ、京都へ落ち
  延びようとした。

  しかし、途中で捕まり、賊軍のそしりを
  受けつつ、斬首された。
  享年41歳。