毛利 弘元
もうり ひろもと
1466-1506
享年41歳。
名称:千代寿丸、治部少輔、備中守、
法名・悦叟常喜
居城:安芸吉田郡山城
■安芸の国人領主。
弘元が毛利家を継いだ時期は、芸備
(げいび)地方の東に細川氏、西に大内
氏をいただき、両勢力がぶつかるちょう
ど谷間に安芸国人領主・毛利氏が置か
れているという状況であった。
そのため、毛利氏はどちらに属すべきか
日々、その去就をめぐって苦悩し続けて
いた。
■1500年、大内義興は細川政元のクーデター
で追放された前将軍・足利義稙(よしたね)
を山口に迎え、これを擁して京都の奪回を
図った。
大内・細川の両勢力が激しくぶつかりあう
中、弘元は両勢力からの圧力を回避すべく
九歳になった長男・幸千代丸(のちの興元)
に毛利家家督を譲り、居城の郡山城を去り、
二男・松寿丸(のちの元就)とともに猿掛城
(さるかけ)に隠退した。
■隠遁生活に入った弘元であったが、細川氏
と密かに通じ、親細川派の立場を取った。
しかし、1503年細川氏の内紛が勃発する
と、にわかに大内氏の形勢がよくなってし
まった。
これを見た郡山城の家臣らは、親大内派へ
軌道修正を図ろうとし、親細川派の猿掛城
の弘元と疎隔してしまう。
■1506年、国人領主と言えども、大内、細川
の両家にこびへつらい、毛利家の意向を
無視して、かって気ままに動こうとする家臣
たちとのいざこざに疲れ果てた弘元は、酒
浸りの日々を送ってしまう。
その結果、弘元は己の寿命を縮めてしまい
酒害により、41歳の若さで没した。
弘元没後、毛利氏は拡大する大内氏に
属することとなる。
弘元の苦悩を幼い元就はどのように感じ
育っていたことだろう。