大道寺 政繁
だいどうじ まさしげ
?-1590
名称:政重、駿河守
居城:武蔵河越城→上野松井田城
■大道寺盛政の子。
大道寺家は北条早雲が一介の浪人の時より、
ともに力を合わせて、出世を目指した大道寺
太郎の後裔であり、後北条家発祥以来の譜代
の家臣である。
大道寺氏の祖は、平治の乱で源義朝に惨殺
された藤原信西で、その子孫が山城国大道寺
に住み着いたのを発祥の地する。
大道寺太郎は伊勢長氏とともに京より駿河国
へ下り、長氏が出世すると太郎はその重臣と
して活躍。
河越衆の筆頭となり、河越衆を率いて後北条
家の繁栄に活躍した。
■1570年、父・盛政の後を受け、鎌倉代官に
就任し、関東の諸寺社の管理、運営に当た
った。
1573年に入ると河越城の城将となり、河越城
の城下町整備に腐心した。
城下町発展のため、政繁はさまざまな決まり
事を定めて、町の繁栄に貢献した。
■政繁は、後北条家の譜代重臣として活躍し、
北条家家臣団の中でも屈指の1200貫余を
領有した。
1582年、本能寺の変で織田信長が没したこと
で上野に進出してきていた織田軍が浮き足立
っている所を北条軍が一挙に攻め、織田軍は
敗退。織田領の諸城を攻略すべく北条軍が
侵攻すると政繁はその先鋒を任された。
政繁は織田軍より奪取した信濃小諸城の城代
となるが、北条家と徳川家の間に和睦が成立
して、政繁は小諸城より撤兵している。
■1590年、豊臣秀吉が小田原征伐を敢行して、
20万の大軍をもって小田原に押し寄せてくると
政繁は子の直昌とともに上野松井田城に篭っ
て、戦ったが豊臣方の前田利家ら諸将の猛攻
にあいあえなく降伏。松井田城を開城した。
その後、前田利家の軍に加わり、忍城攻撃の
先鋒を務めた政繁であったが、同年7月、秀吉
に不忠を責められ、切腹して果てた。