宮部 継潤
みやべ けいじゅん
1528?-1599
享年72?歳。
名称:孫八、善祥坊、中務卿法印
居城:因幡鳥取城
■近江宮部の出自で、幼くして出家し、比叡山の
僧となる。
その後、里帰りして浅井氏に仕えるようになる。
織田氏との戦いでは、浅井氏の守将として
活躍を見せ、ついには織田方の将・木下秀吉
の調略にあい、これに応じて織田氏へ投降した。
■その後は木下秀吉の属将となり、各地を転戦。
中国平定戦では、秀吉軍の先鋒を務め、幾多の
軍功により因幡制圧後は、因幡鳥取城主に任命
される。
■その後も秀吉軍団の一角を成した継潤は、
九州征伐にも出陣し、日向高城において、知略
すぐれる島津家久の軍勢と戦い、見事これを討ち
破る軍功を挙げた。
豊臣政権が天下統治を成すと、継潤は豊臣家の
蔵入地の代官を務め、武勇だけでなく、治世家
としても腕を振るった。
その後、秀吉と共に栄華を見た継潤は、1596年
に隠居すると、子の長煕に家督を任せ、最晩年
は秀吉のそば近くに仕えて日々を過ごした。