立花 鑑載
たちばな あきとし
1522?-1568
享年47?歳


名称:弥十郎、山城守
居城:筑前立花城


■立花家は大友宗家の六代目当主・貞宗の長男・
  貞載が立花家を興したのが始まり。
  別名”西大友”と呼ばれた。
  鑑載は立花家嫡流ではなかったが立花家七代
  目当主となる。
  立花家六代目当主・新五郎が大友義鑑に誅殺
  されたため、急きょ鑑載が立花家を継いだ。

■宗麟が大友家の家督を継ぐと若いながら善政を
  しいた宗麟ではあったが、年が経つにつれ、
  悪政が目立つようになり、徐々に鑑載は大友氏
  の統治に不満を抱くようになる。
  美人と聞くと家臣の妻であっても、強引に奪って
  側室にするなど不条理なことでも平気で行う
  粗暴な性格の宗麟を鑑載は嫌っていた。

■そんな忠誠心が薄らぐ鑑載を宗麟は嫌疑する
  ことなく、その有能な才能だけを評価して、大友
  氏が筑前支配を行う際に要所となる博多の立花
  城を守備させた。
  中国地方の毛利元就は、豊前の完全制覇を
  狙い、宗麟に不満を抱く鑑載を抱き込んだ。
  毛利、高橋、原田氏の支援を受けた鑑載は
  1568年ついに大友氏に謀叛を起こし、挙兵。
  立花城に毛利、高橋、原田氏の援軍を迎え入れ
  篭城した。
  宗麟は、鑑載の謀叛に応じた国人衆の鎮圧に
  は力を入れず、立花城の攻略だけに的を絞った。
  それだけ戦略上重要な拠点だった博多の確保
  を何よりも優先したのである。
  宗麟は、名将として名高い戸次鑑連(のちの立花
  道雪)を立花城攻略に差し向けてきた。
  鑑載は三ヶ月もの間、抵抗したが長期戦に嫌気
  がさした城兵が大友氏に内応し、城内に大友軍
  を引き入れたことでついに立花城も陥落した。
  鑑載は敗走し、再起を図ろうと目論んだが、大友
  軍の追撃を振り切ることができず、進退窮まった
  鑑載は自刃して果てた。