久武 親直
ひさたけ ちかなお
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名称:彦七、内蔵助


■久武昌源の二男。
  長宗我部元親・盛親の二代に仕えた
  重臣。
  長宗我部家家臣団一の軍略家として
  活躍した久武親信の実弟。

■1579年、兄・親信が戦死したことを
  受け、久武家の家督を継ぐ。
  家督を継ぐに当たって、兄・親信は生前
  に実弟・親直は、有能ながら事の末路
  を計算に入れない無謀家であると非難
  しており、主君・元親に対して自分が
  死んだ後に親直を重用しないよう頼ん
  でいたという。

  このような遺言があったため、親直が
  久武家の家督を相続することに反対する
  ものの少なからずいたが、主君・元親は
  有能な親直が活躍の場を失うことを惜し
  み、親信の諫言を無視して久武家の家
  督を継がせ、親信の役職も同時に引き継
  がせている。

  親直はその後、元親の四国制覇という
  偉業を達成する為になくてはならない
  活躍を見せたが、それと同時にこの
  親直の重用が長宗我部家滅亡の
  要因を作る両刃の剣となる。

  1584年、伊予国の軍代となり、元親
  の四国制覇にとって、重用な駒として
  活躍。
  また、阿波統一戦でも華々しい軍功を
  飾った親直は、元親の四国制覇の実現
  にただならぬ貢献を残した。

■1586年、長宗我部家が豊臣政権下に
  組すると、秀吉が推し進めていた大仏
  殿建立に必要な材木調達とその
  運搬の手配を行ったのが親直であった。
  これは、親直が長宗我部家の政務次官
  として活躍していたことを示す。

■1600年、関ヶ原合戦後、西軍に属して
  いた長宗我部家は、不参戦であったこと
  を理由に改易を免れようと微妙な外交
  戦術を行っていた。
  巧みな外交戦術により、なんとかとがめ
  なく済む情勢となった矢先に、親直は
  主君・盛親の実兄・津野親忠が藤堂高虎
  の力を借りて、長宗我部家を乗っ取ろうと
  しているというデマを信じ、盛親に親忠
  暗殺を進言してしまう。
  若い盛親は長宗我部家屈指の重臣の
  進言とあって、その言葉を鵜呑みにして
  兄・親忠を惨殺に処した。

  この事件が徳川家康に伝わると、家康は
  激怒。処罰の対象にある家が行動を自制
  すべきものを家中騒動を引き起こすとは、
  もってのほかとして土佐長宗我部家は領
  土安堵から一転、改易処分となってしまう。

  かつて、親直の兄・親信が事の末路を考え
  ない無謀な軍略家と弟を非難し、重用すれ
  ば必ず、主家・長宗我部家を滅亡に追い
  やると予見していたことが見事、的中して
  しまう。

  四国の覇者ともなった長宗我部家は、四国
  制覇を達成して15年も立たずに亡国の家
  と化してしまったのである。
  長宗我部家滅亡の要因を作った親直は、
  その罪を悔いることもなく、肥後の加藤家
  に仕官し、一千石を賜り、九州の地で余生
  を送っている。