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丹羽 長秀 
(にわ ながひで) 
1535-1585 
享年51才 
●名称:万千代、五郎左衛門尉、 
     越前守、惟住長秀、 
     羽柴長秀 
●居城:近江佐和山城→越前府中城 
     →近江大溝城 
 
■1535年 0才 
尾張国岩崎城主・丹羽長政の子とし 
て、生まれる。 
丹羽家は、尾張春日井郡の名家で 
あり、織田家と同じく尾張守護・斯波 
家の重臣に列していたが、織田信秀 
の逸脱した能力の下、織田家に臣従 
した。 
 
■1550年 15才 
長秀は、織田信長の側近として仕え、 
信長直下の重臣として活躍していくこ 
ととなる。 
 
■1553年 18才 
梅津表の戦いが起こり、長秀は初陣 
を果たす。 
これより後、長秀は信長より重く用い 
られることが多くなり、信長は実兄で 
ある信広の娘を養女とし、その養女を 
長秀に嫁がせている。 
 
■1564年 29才 
尾張犬山城を攻略した信長は、その 
城将に長秀を任じる。 
 
■1568年 33才 
信長が足利義昭を奉じて上洛すると、 
長秀は佐久間信盛、木下秀吉たとと 
もに六角氏の近江箕作城攻めに出陣 
している。 
 
その後、信長の京都統治において、 
村井貞勝とともに近江安吉郷の地方 
行政に携わる一方、松井友閑ととも 
に堺から名物茶道具の収集購入の重 
任に就く。 
 
長秀は信長政権の中でNo.1行政官と 
して活躍。信長の野望躍進に伴い長 
秀の行政務は重用を増し、琵琶湖航 
行用の大型船建造や安土城築城な 
どの担当奉行を務めることとなる。 
 
■1571年 36才 
浅井氏の勇将・磯野員昌が降伏。 
長秀は磯野氏が守備していた佐和 
山城の城代に任ぜられ、実質上、 
長秀の居城となる。 
 
浅井・朝倉殲滅、伊勢長島一向一 
揆鎮圧を経て、長秀は信長の意向 
により、朝廷より惟住の姓を賜る。 
 
■1576年 41才 
長秀は、信長の最後の居城・安土 
城築城の担当奉行に任ぜられ、織 
田家中で最高の名誉ある重務に就 
いた。 
 
また、信長から村田珠光ゆかりの 
「珠光茶碗」という名品を賜る。 
長秀と同様の織田家重臣・滝川 
一益などは関東目付という重任 
に就いた際、同じ珠光の茶器を 
望んだが、信長に一笑に付され 
たことなどから見て、長秀がいか 
に織田家重臣の中でも逸脱した 
地位にいたかうかがい知ること 
ができる。 
 
■1580年 45才 
安土城は一応の完成を見るが、 
その間にも長秀は和泉平定戦や 
北陸攻めに参軍し、多功を立て 
た。 
 
その功績が認められ、長秀は近 
江領土に加えて、若狭10万石を 
拝領し、確固とした大名格となっ 
た。 
 
■1582年 47才 
長秀は信長の三男・信孝を総大 
将とする四国平定戦に出陣すべ 
く準備中に本能寺の悲報に接す 
るのであった。 
 
その報を聞いた長秀は一気に光 
秀討伐の軍を動かさず、まず光 
秀の娘婿・津田信澄討伐に向か 
うという慎重策に出た。 
 
しかし、その丁寧な軍略が仇と 
なった。神業「中国大返し」を実 
行した秀吉の大軍が光秀討伐 
に出陣。 
 
その報を受けた長秀は信孝とと 
もに秀吉の下に合流するという 
消極的な行動しかとれなかった 
。 
 
しかも秀吉の下に合流する際、 
遅参するという失態をおかし、 
完全に秀吉主体の軍略が展開 
することとなる。 
山崎合戦というt天王山の戦い 
に勝利した秀吉・長秀は、信長 
・信忠という当主不在と成った織 
田家の今後を協議すべく清洲会 
議を開き、信雄・信孝候補を押え 
、信忠の嫡男にして若干3歳に満 
たない織田三法師を新たな織田 
家当主に推す秀吉に長秀は荷担 
。 
 
結局、織田家を牛耳ることになる 
秀吉の下に長秀は身をおくことに 
なる。 
 
■1583年 48才 
賤ヶ岳の戦いでは、迷わず長秀 
は秀吉方に属し、勝家方の「鬼 
玄蕃(おにげんば)」と恐れられた 
猪武者・佐久間盛政を捕らえる 
軍功を立てる。 
 
秀吉の織田家統率戦略が着実 
に歩を進ませると、長秀の所領 
もエレベーター式に加増され、 
最終的に長秀存命中に越前、 
若狭、加賀半国を領して、合計 
123万石余を数え、当時の羽柴 
政権では最大最強の家臣大名 
となった。 
 
しかし、それと同時に最大の屈 
辱とも言うべく、秀吉から羽柴の 
姓を賜ることとなる。かつて、木 
下姓を称していた秀吉が織田家 
の2巨頭重臣であった柴田勝家 
、丹羽長秀から苗字の一字づつ 
をあやかって貰い受け、羽柴と名 
乗ったことから見れば、長秀にと 
って足元にも及ばない格下の存 
在であった秀吉が天下をほしい 
ままとする存在となった一方、そ 
の属下となった長秀が、自分をあ 
やかって作られた羽柴姓を自分 
が賜るという生涯最大の皮肉を 
受けることになったのである。 
 
■1585年 50才 
秀吉政権の下、最大の家臣大名 
として君臨した長秀だったが、若 
い頃からの持病である腹痛がひ 
どくなり、小牧-長久手合戦には 
不参加。養生するもひどくなり、 
長秀は長年自分の腹に巣食っ 
て、自分を苦しめる鬼を退治す 
べく、短刀にて自決。自らの腹を 
掻っ捌き長年の仇敵を討ち果す 
という壮絶な死を遂げた。長秀 
の症状からしてひどい胃潰瘍で 
あったらしい。織田信長という激 
怒する気難しい主君をいただく 
中、その下で重務を果たしてき 
た長秀にとって、信長との応対 
はひどいストレス障害を起こす 
ものであったことを伺い知るこ 
とができる。 
 
 
 
                         
 
 
 
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